東京こけし會

昭和10年代に天江富弥の居酒屋銀座勘兵衛に集まった川口貫一郎、加賀山昇次、稲垣武雄らの愛好家が中心となって、設立されたこけしの愛好会。昭和12年頃より、東京こけし會の名前で活動を始めていたが、正式に同好の趣味の会として発足させ、会誌の発行を始めたのは昭和14年からである。


東京こけし会設立メンバー(小島正以外) 於:銀座勘兵衛二階
右寄り川口貫一郎、小島正、天江富弥、田中政秋(野狐禅)、斉藤栄、稲垣武雄、浅沼廣文、深沢要、加賀山昇次、牧野玩太郎、秀島孜、岡村堅

昭和14年6月1日に会誌〈こけし・第1号〉を発行、発行所は蒲田区蓮沼二丁目の川口貫一郎方に置かれた。6月20日に赤坂の月明倶楽部にて第一回の会合が開催された。
〈こけし・第1号〉発刊時点での在京会員は、武井武雄、天江富弥、稲垣武雄、加賀山昇次、牧野薫、田中政秋、斉藤栄、浅沼廣文、森俊守、秀島孜、山田猷、西田峯吉、石井康策、岡村堅、深沢要、川口貫一郎、遠藤武、森卯喜知、加藤滋の19名、ただ同年7月の第2号では、渡辺鴻、今村秀太郎、松下正景、橘文策、米浪庄弌、木村玄三、岩下祥児、寺方徹、鹿間時夫、石井眞之助、鈴木鼓堂、梅谷紫翠など30名が各地より入会、第11号の会員リストでは会員数はさらに増えて、在京会員43名、地方会員61名の計104名となった。

また、東京こけし會として定期的に例会を、神田勘兵衛、武井武雄邸、新宿勘兵衛、神田如水会館、上野山下五十番、銀座三笠、牧野玩太郎邸、萩原素石邸、辨松等で開催した。
昭和12年には「こけし作者一覧番附」を川口貫一郎版元で東京こけし會の名で発行した。
会誌〈こけし〉誌は、昭和14年6月に第一号を発行、戦争が激しくなり休刊となる昭和19年1月の30号まで続いた。


〈こけし・第一号〉

各号の最終ページにはこけしの描彩等の図版が掲載されていた。第3号の庄司永吉の描彩は特に貴重である。写実的な口の描彩などは鳴子であまり他に類例がなく興味深い。


〈こけし〉誌最終ページの図版 右より第1号、2号、3号

東京こけし會が主催、あるいは関わった主な催し物としては、昭和15年7月27日に鳴子にて参会者50余名を集めて開催された現地大会、昭和15年8月28日より9月1日まで東京の白木屋にて開催された「東京こけし會こけし展」などがある。

なお、川口貫一郎は〈こけし〉誌休刊の後、空襲で焼け出されて、郷里の伊勢市に帰ったが、昭和24年より伊勢にて〈こけし〉誌を復刊し、昭和47年の142号まで刊行を継続した。

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