川口貫一郎

戦前の東京こけし会の創立に関わって〈こけし〉誌(昭和14年6月~昭和19年1月)を編集発刊、戦後は伊勢にて〈こけし〉誌(昭和24年1月~昭和47年7月)を142号まで発刊した。東京こけし会の中心メンバーであり、伊勢こけし会の主宰者であった。
特に、戦中戦後の混乱期においてもこけし界をリードし続けた功績は大きい。

川口貫一郎

川口貫一郎は、明治28年4月9日宇治山田市(現伊勢市二俣)に生まれた。大正5年、三重県立四日市商業高校を卒業と同時に上京し、御木本真珠店に就職した。大正10年11月に結婚し、長女、長男、二男を授かるが相次いで病没、その後男の子を二人を授かったとき、こけしは「子育ての神」という話を聞いて、無事な育成を願い、昭和8年に秋田県木地山を訪れて、こけしを求めたのがこけし蒐集のきっかけとなった。木地山訪問は駅から馬を借りて行って、二尺ほどのこけしを一本抱えて帰った。そのお蔭で、その後生まれた女の子を含め、二男三女が無事に育ったという。それを機に、さらにこけし蒐集に熱を入れるようになり、息子を連れて月一回のこけし産地訪問を続けるようになった。職場の御木本真珠店は天江富弥の銀座「勘兵衛酒屋」に近かったので、その常連となり、こけし蒐集家仲間とのつながりも出来た。昭和14年にはその仲間たちと東京こけし會を結成した。
東京御木本真珠店時代は真珠の鑑定者として権威のある存在であったようで、鹿間時夫が御木本に川口貫一郎を訪ねた時には、小学校の講堂くらいある広い部屋を一人で使い、大きな机を据えて、シャーレをいくつも机の上におき、ピンセットで真珠の寄り分けを行っていたと語っていた。
この東京こけし會では「こけし作者一覧番附」(昭和12年8月)の刊行なども行った。


版元 こけしの家(川口貫一郎)昭和12年8月

昭和14年には、川口貫一郎が編集人となって東京こけし會の機関誌〈こけし〉の刊行も始まった。第1号発刊時点での在京会員は、武井武雄、天江富弥、稲垣武雄、加賀山昇次、牧野薫、田中政秋、斉藤栄、浅沼廣文、森俊守、秀島孜、山田猷、西田峯吉、石井康策、岡村堅、深沢要、川口貫一郎、遠藤武、森卯喜知、加藤滋の19名であった。


〈こけし・第1号〉 昭和14年6月

この〈こけし〉誌は、昭和19年1月の30号まで発行された。発行所は東京都蒲田区蓮沼の川口貫一郎方に置かれた。川口貫一郎自身は本名のほか、三角州、デルタ、こけしの家主というペンネームも使って寄稿した。昭和14年の「土湯から」「遠刈田から」「善松こけしに就いて」、昭和15年の「関西こけし會へ」「私とこけし」、昭和16年の「第二回現地大会」「三人行脚」、昭和17年の「雪の旅」「遠刈田行」「ペンペン草」、昭和18年の「こけしの美」「土湯系工人」「弥治郎系工人」等。
昭和15年8月には、東京白木屋で「こけし展」を開催した。こけし展の企画運営は、こけし展同人として川口貫一郎、天江富弥、稲垣武雄、山田猷人、秀島孜ら16名が担当した。閑院宮妃の来臨を賜り、原ノ町の高橋忠蔵の実演もあって成功した催しであった。


戦前の蓮沼のこけし部屋と子息 〈戦災 思ひ出の写真集〉より

東京こけし會は昭和19年に戦争が激しくなって散会となり、また蓮沼の家はB29の東京大空襲にあって蒐集品のこけしと共に焼失したので、郷里の宇治山田に戻った。それでも葉書による通信〈こけし〉の発信は続けていた。
戦後は、いち早くこけし活動を再開、昭和22年1月には「私とこけし」(限定70部)を発刊、同年5月には「会津のこけし」(限定70部)を刊行した。


〈会津のこけし〉 昭和22年5月刊
題箋の「川口貫一郎著 会津のこけし」は自筆

また、昭和22年12月には〈こけし応用雑器の栞〉、昭和23年8月には〈こけしゑはなし〉(限定35部)、昭和24年1月には〈こけし唱〉と戦時中の鬱屈した思いを振り払うように相次いで精力的に出版を続けた。この間、昭和23年8月に54歳で御木本真珠店を退社した。


戦後の三部作 左より〈こけし応用雑器の栞〉、〈こけし絵はなし〉、〈こけし唱〉

戦災で戦前のこけしを焼失したことを知った天江富弥などの玩友から何本かの古品も贈呈され、宇治山田におけるこけしの蒐集活動も精力的に進められるようになった。

昭和24年1月には東京こけし會で発行した〈こけし〉誌を伊勢で復刊、当時としては全国規模の愛好家に対して定期的に発行される唯一のこけし専門の会員誌であり、また「こけし棚」というこけし界ニュースの欄もあったので、多くのこけし人士達がこの〈こけし〉誌によってふたたび情報と連携を取ることが出来るようになった。殆ど全国のこけし愛好家が寄稿しており、川口貫一郎も本名の他に川口三角州、デルタ、こけしの家主などの名前で記事を書いていた。また昭和39年から伊勢こけし会を結成し、茶談会という会合も開くようになった。伊勢で発行された〈こけし〉誌は、川口貫一郎が高齢になって休刊とする昭和47年7月の142号まで継続した。各号には川口貫一郎自刻の版画が貼付されていた。


右より 復刻第1号(昭和24年)と終刊となった142号(昭和47年)

〈こけし〉誌が休刊になる前後に、こけし版画集〈こけし頌〉の正(昭和40年7月限定70部)、続(昭和48年4月限定100部)、続々(昭和49年1月限定100部)の三冊を刊行している。

〈こけし頌〉版画集三部作

昭和50年11月24日病を得て没した。行年数え年81歳。

川口貫一郎の戦後の功績は、終戦後いち早く〈こけし〉誌の発行を開始して、全国のこけし愛好家の再稼働を促し、それを支えたことにあり、また伊勢と名古屋を中心とした中京地区の愛好家をしっかりと育てて今日に至るこけし愛好家の基盤を作ったことにある。

戦後の伊勢の川口貫一郎(こけしの家)のこけし棚には次のようなこけしが並んでいた。
(クリックで各画面は大きく表示されます)

 

〔参考〕

  • 名古屋こけし会:川口貫一郎氏追悼号〈木でこ別冊〉(昭和51年9月)
  • 川口隆子:〈戦災 思ひ出の写真集〉(こけしの家)(昭和53年6月)
    妻女隆子によってまとめられた戦前のこけしコレクション写真集

    〈戦災 思ひ出の写真集〉

  • 伊勢こけし会だより
    川口貫一郎没後、残された伊勢こけし会では遺族の冨田婦二子を中心に、土屋順、山本吉美等8名ほどのメンバーで川口貫一郎の遺志を継承し、〈伊勢こけし会だより〉を継続発行することを決めた。創刊号は昭和51年5月に発行された。

    〈伊勢こけし会だより・創刊号〉(昭和51年5月)
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