茶房鴻

昭和15年より17年にかけて渡辺鴻、亜沙夫妻が東京市世田谷区松原町1-31の自宅応接間を工夫して、こけし収集家に開放していた小さな喫茶店。
京王線代田橋の付近にあった。入口に朝鮮の天下大将軍の門柱があり、内部の壁一面のガラス戸棚は数段に区ぎられ、各工人一本ずつ適当な間隔で配置されていた。その大部分は問題作や古作で十分に鑑賞に値する陳列であった。古作の多くは料治熊太(朝鳴)のコレクションより来ている。


茶房鴻にて 昭和15年9月15日
後列左より 渡辺鴻、亜沙
前列左より 深沢要、セルソ・ゴミス、西田峯吉

各種のウィンザーチェアやランプを置き、亜沙がコーヒーをひいてもてなした。茶房鴻には深沢、西田、土橋、セルソ・ゴミス(Cels Gomis)や近くにあった櫻護謨(株)の興味を持った社員達が頻繁に出入した。新工人の発掘や、古い蒐集家の古品を引き受けて、新しい愛好家に納めることも行った。
下掲は佐藤栄治とされるもので、料治熊太より渡辺鴻の手に渡り、さらに鹿間時夫の所蔵に帰したもの。同様に鹿間旧蔵の天理教時代と呼ばれる三白眼の阿部治助も鴻から出たものである。


〔26.3cm(大正後期)(鹿間時夫旧蔵)〕

名和コレクションに入った高橋寅蔵も料治熊太、渡辺鴻経由で名和好子の手に渡ったものである。このほかにも〈古計志加々美〉掲載のものには鴻出品のものが多い。


〔22.1cm(大正中期)(名和好子旧蔵)〕

渡辺鴻は自ら木ぼこ通信と呼んだ雑誌〈鴻・1~14〉を出版し、愛好家へのこけしの頒布や、古品交換の仕組みを整えた。
〈鴻〉には「重品交換の頁」も設けられた。現地調査も科学的に行い、こけしの鑑別に必要な特徴点や必要知識の枠組みなども整えて、誰でも納得できる鑑別、評価の基盤を作った。これが戦後のみずき会の活動にも繋がり、後にこけしを論じる場合の一つの規範にもなった。
そうした意味で、〈鴻〉は蒐集家が工人からこけしを直接購入する時代、すなわち一次流通中心の時代から、古い蒐集家が市場に出した古品を手に入れる時代、すなわち二次流通が確立する時代の中で、個々のこけしの価値判断を論じる基盤を作った冊子でもあった。


〈鴻・1~3〉

新紹介の工人は西山憲一、佐久間米吉、阿部熊治郎、四竈健康、高橋精志、新山福雄、佐藤伝内、新山茂、我妻与四松、佐藤文男、佐藤吉弥、我妻市助、佐藤茂吉、平賀謙次郎平賀貞蔵高橋盛雄、桜井昭二、高橋寅蔵、岡崎斉吉、高橋直次、 斎藤松治、石沢角四郎、武田卯三郎、佐竹林之助、坂部政治、岡崎直志、小林倉治、常川潤次郎、常川雄三郎、坂下隆蔵、小椋隆雄、小椋勝雄、小椋俊雄33名に達したし、
特に斎藤松治を復活させたことは当時話題となった。深沢・渡辺時代といわれるほど、実証的な探査や資料・聞き書きの収集等を行い、そうした活動をベースとした鑑賞スタイルを定着させた。戦時中、若手収集家の梁山泊でもあった。渡辺鴻はこけし絵、こけし応用品にも関心を持ち、自宅にロクロを設けて自らも挽き、工人をよんで挽かせもした。昭和16年には西須正芳がこけし製作の実演を行った。鹿間時夫は「その白熱的情熱はすさまじいものであった」と書いていた。
昭和17年に雑誌〈鴻〉は終刊となり、コレクションも大空襲によって焼失した。その後、渡辺鴻は山口県に移住し、こけし界から足を洗ってしまった。
なお親しかったスペイン人のセルソ・ゴミスはバルセロナに住んで、こけし部屋を持っていた。鹿間時夫の訪問記〈こけし手帖・22〉があり、「眼が肥えているというのか、駄物がほとんどない。~やはり、鴻さんというバックがついていたためだと思う。」とある。 

ゴミスと渡辺鴻

〈鴻〉14冊は昭和53年に中屋惣舜の未央社より復刻された。

〔参考〕

  • 復刻版〈鴻〉によせた渡辺鴻の一文

    木ぼこ通信「鴻」の発足当時の事を思いおこしてみましょぅ。
    昭和12年12月には「日本軍南京占領」のニユーズが流れ、日本は大陸侵略の政策にまっしぐらに突入していました。私たちの周囲は何となく息苦しい空気がたちこめました。こんな空気にわずらわされずに、気の合った友だちと好き勝手な話をし、したい事がしたくて茶室「鴻」が生れました。開店は昭和13年7月28日(私の誕生日です)、店は戦争がひどくなった昭和19年頃迄つづきましたが、閉店の期日ははっきりせず、昭和20年5月25日の大空襲で焼けました。京王線代田橋駅当時は路面電車でした)から和田堀給水場現存 Wiki註:2014年に公開を中止し一部解体が進んでいる)について右へ約2分位歩いた所の住宅地に私は住んでいました。この家は旧式の平家建で五室ありましたが、その中の1室10帖の面積を低床板張りに改造し、椅子10個位を置 いた喫茶室としました。一面の壁は全部硝子張り棚として、ここに集めた郷土玩具、こけし等をならべ店内にはそれまでに集めたランプ、オルゴール等を置き、夜の照明は一部を除き各テーブルにランプを実際に点火しました。コーヒーは注文毎に挽いて作りました。こんな雰囲気の店が、住宅街のさみしい中にぽつんとできたのです。
    私のねらいは見事当ったといいますか、画家・彫刻家・染色工芸家・漆工芸家などの友達ができました。 その代り、髪の長い人たちが出入りして夜おそく迄話しこんでいたため、特高がレコード屋に化けて、さぐりに来たりしたこともありました。その他俳優・映画人・教授・有名な作家なども来られました。こけし愛好家も勿論たくさん見えられました。
    かいつまんで申し上げると以上のような喫茶店「鴻」から、この通信が生まれたのです。物資不足だったり、仕事が手に余ったりの苦心もありましたが、これは内容をごらんになればおわかり頂けると思います。こけし作家をたずねる旅の苦心談など、記憶もうすれていますので割愛します。

  • 木人子閑話(17) 愛好家の「座」と鴻の眼
  • なお一般芸術学、映像論等で著作の多い渡辺鴻とは別人である。
[`evernote` not found]