セルソ・ゴミス(Cels Gomis 1912~2000)は戦前(1939~1946)にスペインより来日し熱心にこけしを蒐集した。
1912年バルセロナ生まれで、実家は豊かな木綿貿易商であった。自身は芸術家ではなかったが、兄のジュアキム・ゴミス(Joaquim Gomis 1902 – 1991)を通じて.カタルーニャのアヴァンギャルド芸術にかかわる人々と交流していた。ちなみに、兄ジユアキムは有名な写真家であると同時に実業家でもあり、また美術愛好家でジョアン・ミロ(Joan Miró)とも親しく、カタルーニャでアヴァンギャルド芸術を推進した人物の一人でもあった。
ゴミスは自らを世界を股にかける旅行家と称し、旅行を通して様々な文化や風景に触れたいという情熱を持っていた。社会人になってからは、すすんで海外勤務の機会を作り、スイス、ベネズエラ.アルゼンチン、イギリスといった、様々な国の会社の経理部門、行政部門で慟いた。かねてより、東洋の美術に興味を抱いていたゴミスは、1年問の滞在予定で日本を訪れたが、第二次大戦の影響で移動がままならず、1939年から1946年の7年という予定よりもはるかに長い時間を日本で過ごすことになった.1939年9月に日本に着くとゴミスはエウダル・セラと出合い、二人はすぐに仲良くなったたようである.セラはゴミスと同郷のバルセロナ生まれの彫刻家であり、ゴミスより早く1935年に来日していた。二人は一緒に夏の休暇や小旅行を楽しみ、大戦中の困難な時期には神戸の同じ家で共同生活を送ったりした。ゴミスは独身での来日だったので、セラ夫妻には世話になったのだと思われる。美術工芸は二人の共通の興味の対象であり、1939年から1940年の間に民芸運動に接近していった。民芸を通じて山内金三郎神斧や米浪庄弌といった民芸蒐集家との交友関係も生まれた。この時期に、セラは日本の民芸、特に木版画、石板画や漆器、大津絵などに夢中になった。
またゴミスは大津絵と共に、日本の郷土玩具やこけしに魅了され、興味を持つようになった。
ゴミスは日本旅行協会か出版Lた〈Japanese Folk Toys〉(1939年 英語版)、〈東北の玩具〉(1939年日本語版)、吾八版の〈これくしょん〉の古本等を熱心に読んだという。こけしを求めて吾八やテルヤに通うようになり、1940年6月にゴミスは深沢要と吾八で出会う。深沢要を介して渡辺鴻とも交流を持つようになった。
産地にも足を運んだようで斎藤太治郎や由吉にも直接会っていた。
ゴミスは熱心なこけし蒐集家であったと同時に大津絵の蒐集家でもあった。これはセラや米浪庄弌からの影響であったかも知れない。ゴミスか収集した大津絵には質の高いものも多く、すくなくとも、20点の肉筆画が含まれていたという。
戦後ようやく日本を離れ、アルゼンチンに渡って、その地でスイス人の女性と結ばれた。その後、スペインのバルセロナに戻り、木綿会社の要職に就いたという。バルセロナの家には、こけしや郷土玩具、大工瓶、徳利、初期浮世絵、大津絵、古陶類などが飾られていたようである(1957年にゴミスを訪ねた鹿間時夫談)。
1950年にバルセロナで開催された民芸展覧会にはGomis Successionというコーナーが設けられたがそこには弥治郎の新山久治、及位の佐藤文六、土湯の斎藤太治郎と思われるこけし、他小寸数本も陳列されていた。下掲写真の展示の前には画家のジョアン・ミロが立っているが、ゴミス自身もミロとは親しく、バルセロナのゴミスの家にはミロの絵を飾るための部屋まであったという。
バルセロナで開催された民芸展覧会会場 1950年
Gomis Sucessionに立つジョアン・ミロ
2000年(平成12年)9月27日に亡くなった。行年数え年89歳。
〔参考〕
- セルソ・ゴミス(Cels Gomis 1912-2000):日本の民衆芸術
- Ricard Bru :En torno al movimiento mingei(2017)
- リカル・ブル(紅林優輝子訳):カタルーニアにおけるける大津絵の受容〈Bijutsu Forum 21,vol.36)
- 鹿間時夫:ゴミス氏を訪ねて〈こけし手帖・22〉(昭和33年8月)