九十九豊勝

明治27年7月17日、兵庫県三木市志染町安福田577の浄土宗・栄運寺住職、九十九淨二(せんじ)、寿(すい)の7人兄弟の末子として生まれる。栄運寺は元禄5年に中興され、竹中半兵衛の墓と供養塔がある事で知られている。
 豊勝は幼少の頃に大阪市道修町で薬問屋を経営する中前家に養子として迎えられた。道修町は当時、日本を代表する薬問屋街で現在も多くの製薬会社がオフィスを構えている。
 豊勝は幼少の頃の話を余り好まず「わしの誕生日はラッキー7が三つもある幸福な星の元で生まれたんや。寺が貧乏だったのに次々に子供が生まれて檀家に遠慮してわしを寺からだしたんやろ」と子供たちに話していた。余り中前家には馴染めずに親元を離れて勉学に励んだ。
 京都市の旧制東山中学校卒業後、早稲田大学政経学部に入学している。大正2年、早稲田大学在学中にシカゴ大学教授のフレデリック・スタール博士が来日した際に、豊勝はスタール博士に手紙を書き助手兼通訳となった。以後スタール博士とともに富士山などの山岳宗教調査に加わった。全国各地を回り郷土玩具や魔除け、農具等の民族資料の収集を手伝う内に自らも民族学に目覚めた。スタール博士と豊勝の富士山登山は岡本一平(岡本太郎の父)の漫画にも残されている。そこには「中前君御札博士と富士登山」とあり早稲田在学中は中前姓であったことが伺い知れる。


一平漫画 中前君御札博士と富士登山

 フレデリック・スタールは1858年(安政4年)9月2日ニューヨーク州オーバーン市に生まれた。1882年にロンチェスター大学で学位を得て、1855年にラファイエット大学で地質学の博士号を取得し、アイオア州のコ―大学で生物学を教えていた。
その後キャリアを重ねるとともに人類学と民族学に興味を持ちアメリカ自然史博物館の動物行動学と民俗学の学芸員に任命される。その後シカゴ大学で人類学の教授となりコンゴ、フィリピン、リベリア等で暮らし研究を深めた。スタール博士はアイヌの研究を深める中で松浦武四郎に興味を持ち親日家となり明治37年から昭和8年まで16回来日している。
こよなく日本文化を愛し特に郷土性豊かな土俗玩具の蒐集には力を入れた。お札・達磨・雛・絵解き・河童信仰等にも蒐集は及んだ。和服姿で各地の神社仏閣を訪ねてお札を蒐集したところから「お札博士」と呼ばれていた。2回目の来日時には、集古会の同人(清水清風・西澤仙湖・久留島武彦・淡島寒月・林若樹・山中共古)や我楽他宗の三田平凡寺と邂逅して蒐集品の交換をしている。豊勝も通訳として参加していた。1933年(昭和8年)8月⒕日16回目の来日の最中に東京で病死した。
 豊勝は大学卒業後に旧制中学高の英語教師として島根県立杵筑中学校に赴任する。文法は基礎として教えたが、生徒の自主性を重んじて英語を自分の言葉として表現する大切さを説いた。スタール博士譲りの洒落っ気もあり生真面目な教育方針を否定して校長とは揉めていた。杵筑中学校の教師の時に孝子と結婚。孝子は京都市の老舗染色工場の娘で東京女子専門学校を卒業してから旧制杵築中学校で数学の教師をしていた。その後、豊勝は鹿児島県肝属郡高山村に移り旧制中学で教鞭をとったが、大学の同窓会名簿にはこの時期の職業を翻訳著述業としていた。昭和3年5月に豊勝の蒐集資料を展示するために大阪電気軌道(後の近畿日本鉄道)協力の基に、奈良市あやめ池に東洋民俗博物館を開館した。


石造のこけしと九十九豊勝(昭和初期) 東洋民俗博物館にて

 教師時代はスタール博士が来日すると学校を長期間休みアテンドしていたので休暇を巡り学校とは揉めることが多かった。展示品の殆どは九十九豊勝が蒐集したものと、博物館のオープンに合わせてスタール博士が愛好家に呼び掛けて集めてものである。
 また豊勝はスタールの著作の翻訳も担当していた(フレデリック・スタール著、九十九豊勝訳〈絵馬〉昭和5年、〈朝鮮仏教〉昭和6年(東洋民俗博物館)等)。


スタール博士の銅像(東洋民俗博物館)
昭和3年作品で奇跡的に戦争を乗り切ったとの事

東洋民俗博物館の展示物は大きく3つに分類される。一つは日本の民族資料、二つは外国の民族資料、三つは森羅万象象窟(九十九黄人の研究室)からなりその数は1万点である。黄人(おうじん)は九十九の雅号で、エローマンをもじってイエローマンとしたのだ。博物館裏の一部屋を「森羅万象窟」とも「奥の院」ともよんで、性崇拝の蒐集や研究、道楽絵葉書や判じ絵作りなどを楽しんだ。九十九黄人は「民俗学の究極は性で、人類は性を神秘的なものとして信仰していた」と云う信念を持っていた。森羅万象窟には世界中で集めた貴重なグッズ・書籍・雑誌・彫刻・春画・浮世絵等、発禁本も多数揃っていている。大正期初期からスタール博士の影響で民族学に傾倒するが、昭和に入り特に性に関する蒐集、研究に力を注いだ。
 黄人を有名にしたのは、陰毛の蒐集である。性別・年齢・氏名・職業まで丁寧に記載されている。戦時下の昭和10年代の蒐集品が多く当時のファシズム国家の中で官憲に睨まれる事もあった。留置所で左翼思想の男に「お前はアカか。俺はピンクや」と話した逸話もある。
 もう一つの黄人の趣味は、道楽絵葉書と判じ絵作りであるが、これは大正時代から昭和初期の趣味人やコレクターが「高等遊民」と名乗って製作を楽しんでいたもの。この遊びを「我楽多」と称し、文字どおり「我楽しむ」の意味で、価値のないガラクタ(我楽多)を蒐集し各地の趣味人と競いあった。
 東洋民俗博物館は創立30年近くの昭和25年頃から展示物の散逸を心配する声が有識者の間で高まり、博物館は九十九豊勝個人の所有物から法人の所有物にしようという動きが出た。当時県庁に勤めていた次男不二麿が中心となって取り組み、昭和28年3月に文部省から財団法人の許可を得た。初代館長には九十九豊勝、初代理事長には学芸員の資格を有していた三男千萬樹が就任した。理事には橿原考古学研究所の末永雅雄博士をはじめ奈良県内の大学教授が就任している。また相愛女子専門学校で教授をしていた妻の孝子も理事となっている。二代目館長は長男の九十九迪樹が就任して、現在は三代目館長として四男の弓彦が監理している。

東洋民俗博物館

九十九弓彦 三代目館長

 さて九十九のこけし界との関わりであるが、橘文策発行の〈こけし異報〉に名前と写真が掲載されている。〈こけし異報・3〉(昭和9年4月10日発行)には、第1回木形子夜話会が昭和9年2月17日夜に天満の野田屋で開催されて「野々垣、佐野、岡島、梅谷、九十九氏の経験談感想談」が話されたこと等が記録され、記念撮影では九十九豊勝は前列中央で鳴子こけしを持って写っている。


第1回木形子夜話会(昭和9年2月17日)

〈こけし異報・4〉(昭和9年6月1日発行)では第2回木形子夜話会として「4月⒕日夜 ガスビルにて」として記念写真が掲載されている。野々垣勇吉、梅谷紫翠、芳本倉太郎、西田静波、橘恵子、九十九豊勝、奥野伝次郎、橘文策、佐野豊治、中山香橘の名が記載されている。


第2回木形子夜話会 (昭和9年4月⒕日)前列左端が豊勝

〈こけし異報・9〉(昭和11年3月20日発行)には第3回木形子茶談会(8月21日)、第4回(9月27日)第5回(10月18日)、第6回(11月21日)、第7回(12月11日)の出席者の総人数しか記載されていない。ただ第4回には「九十九豊勝氏の『大島の娘を語る』の講話あり、今夏東京より伊豆、大島方面に猟奇的旅行をされた同氏が例の特殊的研究の立場より、ユーモラスに語られた。会員の爆笑裡に11時閉会」と記載がある。また第6回木形子茶談会は深沢要を招いての歓迎会で記念写真が掲載されている。柴田武太郎、浅沼廣文、長屋英治、瀬川俊峰、野々垣勇吉、山本芳夫、橘文策、深沢要、佐野豊治、岸本五兵衛(彩星)、浅田俊男、九十九豊勝、米浪庄弌が写っている。このような事から豊勝は毎回木形子茶談会に出席していたと思われ、昭和1桁の古いこけしも結構所蔵していたはずである。東洋民俗博物館に現在所蔵しているこけしは、戦後のものばかりで数も多くない。古品こけし群は財団法人に認可される昭和28年以前に手放したのかもしれない。


こけしと蘇民将来 東洋民俗博物館

全国各地の絵馬


日本郷土玩具大番附 行事スタール、世話人九十九豊勝 (昭和9年)

 現在の東洋民俗博物館に古いこけしは保存されていないが、浄土宗の古寺に生まれた反骨精神に富む九十九黄人が集めた世界中の風変わりなコレクションは一見の価値がある。
 平成10年2月10日103歳で亡くなった。死ぬ直前に鉛筆で書いた「good by」が絶筆となった。

〔参考〕

  • 九十九弓彦:〈東洋民俗博物館あれこれ〉(私家版)(平成19年1月)
  • 九十九弓彦:東洋民俗博物館の歩み〈阡陵・No.80〉(関西大学博物館)(令和2年3月)

 

[`evernote` not found]