高橋利兵衛家は秋田県川連で代々漆器の製造販売、染屋、蚕糸の製造業、酒屋、木綿商を営んだ豪商。取引先は、備中(岡山)、京都、大坂、江戸から松前(北海道)にまで及んでいた。
また、藩主の許可を受けて天保元年(1830年)より川連漆器の色彩の原料を京都から仕入れていた。天保5年(1834)には永代苗字を、更に天保14年(1843)には永代帯刀を許された。
安政6年(1859)、6代目利兵衛の代に朱を取引する朱座出張所の開設を江戸幕府から認可された。これにより幕府の専売制であった朱座特権を獲得し、以後「公儀御用」として乗馬で諸国を往来できたという。
この6代目利兵衛は文久2年(1862)5月1日の大火で焼死し、7代目利兵衛(1817~1870)が家を嗣いだ。
明治に入って8代目利兵衛は、内国勧業博覧会や各地方博覧会に川連の漆器製品を繰り返し出品した。明治14年に上野公園で開催された第2回内国勧業博覧会朱塗鐘、青漆塗徳利、朱塗吸物椀、内朱吸物椀、黒内朱吸物椀、木砂鉢、会席膳等を出品している。
また、明治28年に京都岡崎公園で開催された第4回内国勧業博覧会では会席膳、吸物椀、蒔絵付卷煙草入、硯箱、汁椀、八十椀、重等を出品している。
また地方博覧会の出品もあり、明治13年には宮城県博覧会には吸物膳、吸物椀、重箱を出品している。
高橋利兵衛家には多くの古文書類があり、それは現在稲川町役場に寄贈されている。
こけし工人の藤原勝郎は稲川町役場に勤務していたが、その間にこの高橋利兵衛文書の整理、解析にも関わったという。
〔参考〕
- 山本陽子:地方博覧会・共進会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・5〉(令和3年4月)