工藤治助(くどうじすけ:1872~1947)
系統:肘折系
師匠:佐藤文六
弟子:
明治5年5月15日、山形県飽海郡田沢村(昭和29年町村合併で平田町となる)小林の農家に生まれた。〈こけし辞典〉によると、「庄内大地震のあった明治27年に鶴岡市宝町に出て、兄平一郎と共に庄内杓子を作った。平一郎は庄内杓子の元祖という。」とある。下掲は明治36年3月1日~7月31日に大阪市天王寺今宮で開催された第5回内国勧業博覧会の出品目録であるが、ここに鶴岡町宝町より杓子を出品した工人として工藤平治郎が記載されている。〈こけし辞典〉は聞き書きによる記述であり、平一郎は平治郎(ヘイズロウ)の誤聞と思われる。
治助はその後肘折へ行き、佐藤文六について木地を習得した。明治40年頃湯田川温泉で独立開業し、こけし、独楽などの木地玩具を主体に挽き、温泉土産として売り出した。木地玩具類がブリキ玩具に押されて売れなくなってからは、盆、椀などを主に挽いたが、材料難のため大正の始め頃には木地業を廃業し、妻に食料品店を出させて、自身は炭焼きとなった。大正12年頃兄の子金五郎を養子にし、金五郎は湯田川でクリーニング店を開業、治助はその店を手伝う傍ら湯田川名産の孟宗竹で杓子の柄を作り、兄の元へ送ったりした。昭和22年5月15日、76歳で亡くなった。酒もタバコもやらなかったと言う。作品は未確認である。