尻替玉

馬具の一つ。通称、管(くだ)と言って馬の尻尾の捌きを良くするために使われた。尻がい玉ともいう。馬の尾の下を通して両端を鞍に付ける。

馬の尻替玉

尻替玉作りは、ロクロの工法と刃物の扱いの習得になるので、戦前には鳴子はじめ各産地で、弟子入りして初めにこの尻替玉を作ることから修業を始めることが多かった。管(くだ)には農耕馬用、平地向き馬車引馬用、山手方面向き馬車引馬用などがあった。直径9分ぐらいの丸玉が40個で一連、8分と5分ぐらいの平玉(平型の玉)は80個で一連であった。農耕馬用や平地向きの馬車引用にもなったし、また1寸2分ぐらいの丸玉は18個で一連、1寸6分くらいの丸玉は16個が一連で、ともに山手方面向き馬車引馬用になった。この管の注文で忙しい場合は一人前の職人や兄弟子なども一緒になって作った。材料は塗下と同じで、生の朴木、はんのき、桜などであった。管の種類によって違ったが、1日500から600個作れば一人前の弟子と言われ、稽古時代の弟子たちは真剣にこの仕事に精を出した。玉に穴を開けるので錐の使い方を覚え、一本の材料から3から10個の玉を作り、これを切り取るので鋸(のこぎり)の使い方を覚えるので鉋だけの習得ではなかった。玉の形が揃い、数も300個ぐらい作るようになるには3年以上かかった。米俵一俵に管を100連入れて値段は6円から15円(昭和5、6年頃ぐらい)でそれも管の種類によって違いがあった。
秋山忠市は、高橋武蔵が父の秋山忠と同級であったため、高橋武蔵のもとで修業を始めたが、修業中のおもな仕事は馬の尻替玉を挽くことであったという。
当時、尻替玉にはまとまった注文が確実にあり、宮城県内及び山形県、福島県、岩手県などの荒物屋に卸していたが、終戦後軍用であった皮革製の馬具一式が一般に大量に放出されて以来、ぴったりと売れ行きは止まった。また農耕馬は耕運機に、馬車はトラックに取って代わられたので、今日では尻替玉の需要は無い。
従って現在では練習用としても尻替玉を作らせることはないし、見習いの初めから小さなこけし作りをさせるのが一般的である。

〔参考〕

  • 高橋武男:鳴子の木地業とこけし〈こけしのふるさと〉(未来社)(昭和47年3月)
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