宮原喜栄一(みやはらきえいち:1944~)
系統:木地山系
師匠:小椋英二からの見取り
弟子:
〔人物〕秋田県雄勝郡須川村高松の農業、炭焼き業の宮原政雄、シゲの4人兄弟(男2人・女2人)第二子長男として、昭和19年7月12日に生まれた。須川中学校新田分校を昭和34年3月に卒業した。同級生6人の中に小椋英二がいて親友であった。英二は中学生の頃から頭の回転早く一目置かれる存在だったという。
学卒後は製材所に13年勤め木取り等を行い木の材質、特徴を学んだ。小椋英二が久太郎の木地挽きを辞めて神奈川県座間市に転居した昭和42年の夏に、久太郎に弟子入りを懇願したが断られた。当時英二から木地挽きは教わっていて、こけし程度は既に挽けたので、昭和42年秋に手作りの轆轤を設置して会社勤めと農業の傍ら副業としてケヤキ、杉を主要材としたこけしとテーブル作りを始めた。また42年9月に妻の正子を迎えた。子供の頃から絵を描くこと等が好きで、こけし作りには強い興味があった。また製材所を辞めた後に出稼ぎに東京へ出た時期もあり、こけしを土地の名産にして家で仕事できるようにと考えた。いざ始めるとこけしの表情と模様は奥深く、試行錯誤の繰り返しで昭和49年にようやく人前に出せる現在の型の原型ができた。素朴な表情と云うよりクリッとした可愛い眼が喜栄一こけしの特徴である。材料はケヤキと梅等の有色材を好んで使用している。轆轤を廻してすでに50年以上の経験となる。
「秋田県こけし展」には第19回(平成7年2月)と第20回(平成8年2月)の2回出展して、出品者名簿に氏名も掲載されている。師匠がいない見取り工人は受賞が難しいと聞いたので、以後は出品していない。こけしの他には各種テーブル、椅子、わら細工の草履や長靴なども作っている。近年は田んぼを整理してジュンサイを育て販売している。
尚、隣の宮原泰治、及びその義理の息子の幸亀(昭和36年6月生まれ)は親戚であった。泰治は平成24年7月30日に数え年87才で逝去、養子の幸亀は平成21年に関東へ他出したのでその後この系譜では喜栄一しかこけしは製作していない。
〔作品〕〈東北のこけし〉には、下掲の椿模様のこけしが掲載されているが、この型や一筆目くびれ胴のこけしは近年では製作していないようである。
写真のこけしは8寸余でかなりの太胴、ボリューム感にも富んでいる。写真右は絣模様で材は梅である。左はコスモス模様でイタヤ材である。喜栄一の地元は高松地区のコスモスの名所として知られている。 尚、喜栄一は自作のこけしに「高松こけし」と名付けている。
〔伝統〕木地山系一般型 木地は小椋英二よりの見取りであるが、描彩については喜栄一の創意によるところが大きい。