大沼宜輔工場

戦後、昭和20年代はじめから昭和30年代終わりまで、鳴子湯元の坂に面して土産物店を開業していた大沼宜輔が経営していた木地工場。湯元の坂を登る左手、現在の鳴子ホテルの通用口の向かい側にある大沼薬局の前身が宜輔の土産物店であった。
大沼宜輔は鳴子の源蔵湯の出であるが、父源治は憲兵として一家で韓国に赴任していたので宜輔は大正7年に韓国で生まれた。大正15年に源治は日本に帰任したので一家は鳴子にもどった。
源治は湯元の坂で売店を営んだが、当時は湯治客の日用雑器や土産物が主な商品であった。
戦後、昭和20年代はじめに湯治客や観光客も戻って来たので、大沼宜輔は鳴子のこけしを製作販売することを考え、店の裏手に簡単な工房を設置し、松田初見を職人として営業を始めた。昭和20年代後半になると観光客も多く入るようになったので工場を整備し、何人かの弟子をいれて、松田初見の指導でこけし等の木地製品を挽かせ、湯元の坂に面した土産物店で販売した。
この大沼宜輔の木地工場で松田初見の指導を受けた職人は、 鈴木運吉(昭和20~30年代)、 熊谷正(昭和20~30年代)、 菅原直義(昭和30年代)、 中鉢君雄(昭和30年代)、 山下洋 (昭和30年代)等である。
昭和30年代後半に、大沼宜輔は鳴子木地玩具協同組合長を務め、昭和39年の東京オリンピックに際しては、鳴子中学校こけしクラブの生徒による選手への一万本のプレゼントこけし製作のとりまとめに関わった。
大沼宜輔の木地工場での営業は、その後まもなく終了し、その後は大沼薬局が営まれている。

現在の大沼薬局

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