宮城県鳴子温泉を潟沼の方に登ったところ、大穴のふもとに祀られていた如来。鳴子こけしの起源とこけしの語源に絡んで説明されたことがある。
昭和初期に鳴子木地組合が作った赤い紙のこけし由来記があり、橘文策は〈木形子・第2号〉に掲載した「木形子の起源に就いて(二)」の中で、その由来記を次のように引用している。「こけしはケシの転訛にして『厄除子如来』にかたどり厄病除けの玩具に用ひ略称『除子(ヨケシ)』から「こけし」に変わったのである」 この由来記は随分早いころから流布していたようで、天江富弥の〈こけし這子の話〉にも鳴子の解説のところに「厄除子と称して、入湯土産には必ず浴客の購うものとされ、子供の厄除になるといわれておりますが、その根拠は明らかではありません。」と書いている。また、同じ昭和3年に刊行された〈東北土俗玩具案内〉にも「厄除子如来にかたどり云々」という記述がある。
東北土俗玩具案内(昭和3年4月 仙台鉄道局)
今日ではこけしの起源に関しても、語源に関してもこの「厄除子如来」を取り上げるものは誰もいないが、起源・語源と関係がないからと言って「厄除子如来」やその信仰がなかったというわけではない。
厄除子如来があったという大穴は、崖の中腹にあいた大きなほら穴である。山並みが左右に連なり、その中央に位置する大穴は巨大な山の神の陰門のようにも見える。古くはその大穴自体が御神体であっただろう。
その大穴の下に今でも小さな神祠が祭ってある。如来と言いながら神仏混淆で鳥居も建てられている。こけし工人秋山忠の話では、その鳥居の脇には厄除子如来と書いた赤い旗が幾本も立っていたらしい。昔はそこでこけしを御札とともに売っていたと語っていた。浴客は参詣するために湯元の坂の突き当り、横屋旅館があった辺りから斜めに上る山道を伝って大穴の下に至ったという。
子供の無事な発育と厄除けを祈願してこけしが買われていた時代が相当長く存在していたのである。その習俗はおそらく大正期くらいまでは続いていたであろう。こけしは単純な玩具というよりはもう少し底の深いものであった。
〔参考〕