秋山慶一郎

秋山慶一郎(あきやまけいいちろう:1890~1964)

系統:蔵王高湯系

師匠:秋山忠

弟子:秋山清一/秋山一雄

〔人物〕    明治23年10月15日、宮城県遠田郡涌谷の商業秋山清八郎、らんの三男に生まれる。長兄は秋山耕作、次兄は秋山忠である。明治31年一家は鳴子に移った。小学校時代同級生に同名の者がいたため、喜一郎と呼ばれるようになり、昭和16年ごろまでこの名を使った。
明治39年、父清八郎は鳴子駅前、現在西条菓子舗のある場所に木地工場を建てたので、慶一郎はここで兄忠について一年あまり木地を習い、兄の徴兵後もここで働いた。ともに働いた仲間に佐藤常吉、佐藤某(いづれも秋田県湯沢から来て忠の弟子)らがいた。
大正3年25歳のとき上ノ山へ行き、小松徳五郎方の職人となり、翌4年夏、蔵王高湯の能登屋で職人をした。このころ奥山ヱミと結婚、長男清一、長女きみ子が生まれた。しかし、冬期は仕事にならなかったので、上ノ山へ下った。大正5年からは三年間、蔵王高湯の木地屋代助商店(岡崎長次郎方)で夏冬通して職人をした。当時代助商店には夏冬通しの職人が三人いたが、慶一郎は他の職人の一人半相当の仕事をしたという。
大正7年に代助商店をやめ、大鰐(兄耕作がいた)、湯野浜、温海(阿部常松方に滞在)、湯田川などに遊び、代助商店でかせいだ60円(当時は35銭で旅館に泊まれたという)を使いはたした。そこで鶴岡の竹野銀次郎方の職人となり、大正10年までここで仕事をした。竹野方には阿部常吉もいた。大正11年に妻のヱミが死亡、大正14年に鶴岡市三日町の平田金吉長女きんと再婚した。きんとの間に、二男幹雄、二女喜代子、三女ヨシ子、四男一雄、四女幸子が生まれた。四男一雄は後に慶一郎のこけしを継承した。
また、山形県東田川郡大島村や最上郡牛木へ製椀の指導にも行き、昭和3年には瀬見に近い最上郡西小国村鵜杉へ移った。昭和6年42歳のとき鶴岡市大宝寺町仲道(現宝町3-17)に落ち着き、今間製作所で鉄工職人として職を得て、農機具製作に従事した。
しかしこの間、木地業をまったく離れたわけではなく、頼まれれば竹野銀次郎方の仕事も手伝っていたようである。昭和10年ごろよりこけしの注文がくるようになり、最初は竹野方のロクロを借りて挽いていたが、昭和15年4月、渡辺鴻氏より100円借りて自家にロクロを据え、昭和16年3月、今間製作所をやめて独立した。以後、自家で農機具の製作修理と挽物玩具の製作を行ない、戦後は最初、長男清一と、のちには四男一雄と一緒に農機具修理、新型こけし木地製作、旧型こけし製作を行なった。昭和39年2月14日没。行年75歳。

秋山慶一郎 昭和16年

秋山慶一郎 昭和16年

秋山慶一郎  撮影:森田丈三

〔作品〕  石井眞之助は、昭和初期の愛知県西尾の女学校校長時代に、東北各地の女学校の校長宛に「生徒が昔遊んでいらなくなったこけしを、どんなに黒くなったものでもいいから、研究のために集めて送ってくれ」と手紙を出して、かなりの量の黒くなった古いこけしを手に入れた。 深沢コレクションに残る黒こけしも大部分は石井眞之助の蒐集品である。
下の写真も、そのようにして石井眞之助が集めた黒こけしの中の秋山慶一郎である。
おそらく現存する一番古いもので第一期鶴岡時代、大正中期の作であろう。胴模様は蔵王高湯式、首は鳴子式で胴への嵌め込みである。フォルムにも鳴子からの伝承が強く残っている。

〔22.5cm(大正中期)(箕輪新一)〕
〔23.5cm(大正中期)(箕輪新一)〕

秋山慶一郎を発見し、その復活こけしを最初に手にしたのも石井眞之助である。その発見の経緯を次のように書いている。
「秋山慶一郎 彼を最初に見つけたのは自分である。その後1年たってもなかなか作って貰えず、直接交渉をあきらめていると、自分の趣味の友の奥さんが鶴岡の出身であることに気がついた。この奥さんの実家は鶴岡切っての名家、『趣味を解する父によく依頼してみます』 とのこと。一ヶ月ばかりたってこの奥さん、重そうな風呂敷包みをかかえて来訪、大きい荷物を玄関に置いて『鶴岡からこけしが届きました。私の分まで全部差し上げます』とのことであった。時に昭和11年早春、大は31cmから以下ズングリムックリのこけし7、8本手に入った。こけし人から乞われるままに気前よくパーッとバラまいてしまった。」
下の写真23.7cmは石井眞之助が最後まで手元に残したもの。深沢コレクションの29.7cmは石井眞之助が気前よく深沢要に分けたものである。
この時期のものは石井眞之助の言うようにズングリムックリして量感のあるフォルム、表情は鋭利で緊張感も抜群、極めて水準の高いこけしであった。

〔23.7cm(昭和11年)(橋本正明)〕
〔23.7cm(昭和11年)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵

この石井旧蔵の23.7cm、左右の鬢飾りの描法が違っている。おそらく長い休業期間をおいての復活初作であるから、手が定まらなかったのかもしれない。

左右の鬢飾りの違い
左右の鬢飾りの違い

〔29.7cm(昭和10年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔29.7cm(昭和11年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

この深沢コレクションの昭和11年作は、後に秋山一雄によって復元された。

復活当時の秋山慶一郎は、なかなか入手困難なこけしで、石井眞之助入手の後、昭和12年には殆ど作らず、昭和13年頃から少しづつ作るようになり、昭和14年以降蒐集家の依頼にほぼ応じるようになった。昭和15年には、渡辺鴻による頒布もあった。


〔右より 20.3cm(昭和13年6月)、26.7cm(昭和13年)鹿間時夫旧蔵)(北村育夫)〕

〔左より 20.7cm(昭和14~5年)、28.2cm(昭和16年6月)、24.5cm(昭和16年)米浪庄弐旧蔵、 24.0cm(昭和16年8月)〕  一金会 June 6, 2014 
〔左より 20.7cm(昭和14~5年)、28.2cm(昭和16年6月)、24.5cm(昭和16年)米浪庄弌旧蔵、 24.0cm(昭和16年8月)〕  一金会 June 6, 2014

戦後もこけしの製作を続けたが、昭和30年代後半になると筆力はやや衰えた。

秋山慶一郎のこけしは、鳴子を母体としながら蔵王高湯の様式を取り入れたもので、極めて独特である。鳴子のみやびやかな様式に蔵王高湯の重厚な情感が融合して、他に類例の無い作品を生み出した。

系統〕 木地の系統は鳴子系。こけしは鳴子、蔵王高湯の混交であるが、便宜上、蔵王高湯系に分類している。

〔参考〕

  • 西田峯吉:秋山喜一郎のこけし 東京こけし会編〈こけし・10〉
  • 石井眞之助:思い出のこけし 〈こけし手帖・69〉
  • 箕輪新一:古作秋山慶一郎こけしの追求 〈こけし手帖・138〉

 

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