阿部国松(あべくにまつ:1826~1905)
系統:土湯系
師匠:阿部四郎兵衛
弟子:
文政9年12月14日、福島県土湯字下ノ町の阿部四郎兵衛の長男に生まれた。戸籍表記は國松。ソノ、辰吉(戸籍名辰之助)、利助、栄七、タカ の弟妹がいたが、国松とソノ、辰吉には共に発話に不自由があった。父は氏子狩に応じた木地師でもあり、名主まで務めた土湯の有力者であったが、国松と辰吉は、土湯の温泉街から離れた北17丁の女沼のほとりに木地小屋を建てて、二人挽轆轤で木地製品を作った。そのため土湯の加藤屋で膽澤為次郎の一人挽ロクロ技術の講習にも参加せず、生涯二人挽きで仕事を行った。弟の辰吉と交互に綱を取ったという。盆、茶壷、煙草入れ、蝋燭立て、箸立てなどを作り、妹のソノが塗り方をした。製品は温泉街にに卸して売られた。玩具は作らなかったが、木地は名人で茶筒等は蓋が自然に下がって、ぴたりと納まったという。温泉街の一人挽きの製品にも技術的には劣らなかった。一人挽きを伝えた膽澤為次郎と競っても尚勝ったという〈土湯木でこ考・5〉。
弟の栄七が出品者となって第1回および第2回内国勧業博覧会に木地製品を出品している。第1回には佐久間浅之助の製品を出品したが、第2回の内国勧業博覧会には弟の阿部栄七が出品者となって、兄の阿部國松が製作した腰高盆、茶入、菓子入、三ッ椀を出品している、
国松には弟子がいないとされるが、阿部仙太郎が弟子だったとも言われる。身体は頑健で、80歳近くまで木地を挽いていたという。
明治38年3月12日没、行年80歳。
末妹タカの旅館が蔦屋 の前身という。四郎兵衛家の家督は国松の弟の栄七が継いでいた。
〔参考〕
- 佐藤泰平:国松と弟達〈土湯木でこ考・第5集〉(昭和37年11月)
- 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)