井上ゆき子

井上ゆき子(いのうえゆきこ:1932~2010)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤春二

弟子:井上はる美

〔人物〕 昭和7年11月8日、福島県耶麻郡西会津町之澤字原町乙の民芸品製造業井上義治・としの長女に生まれた。福島県立喜多方高等女学校に入学したが体調を悪くして中退、昭和24年18歳より父義治について創作こけしの野沢こけしの描彩を習得した。
昭和29年小林四郎を婿に迎え、昭和30年には長女はるみを儲けた。
昭和34年喜多方市大道田に移り、夫婦で新型こけしの製作を行った。昭和37年、父義治が没した。その年、上野松坂屋のみちのく物産展で実演、墨絵の水仙こけしを並べたがあまり売れず、隣の鳴子こけしは盛んに売れていたので伝統こけしに興味を魅かれた。
昭和40年頃、会津若松市山彦商店の小林珠江より飯坂の佐藤栄治の型の注文を受け、四郎木地、ゆき子描彩で製作したが、物議をかもし、以後中断した。
昭和43年になると、鹿間時夫が夫妻の創作力に注目し、9月に鹿間蔵の佐藤栄治を持参して復元を依頼、木地挽きから描彩まで鹿間時夫つきっきりの復元を試みた。かなりの成功作であったので、こけし夢名会での頒布を企画、12月製作の栄治型が、翌昭和44年の2月に頒布された。
伝統こけしに意欲を持った夫妻は、昭和44年秋に熱塩の佐藤春二に弟子入りし、一年間師匠のいる熱塩まで通って技術を学んだ。以後春二型のこけしを作るようになった。昭和45年5月には名古屋こけし会で頒布され、また都立家政のたつみの特頒にもなって、春二型こけし作者として知られるようになった。
昭和46年12月耶麻郡塩川町新江木に移住、四郎木地、ゆき子描彩のこけし製作を続けた。 昭和48年頃より、ゆき子自らも木地を挽くようになった。
このころ都立家政のたつみや東観の企画で、佐藤春二の古型復元を行った。 昭和56年夫の四郎が亡くなり、また57年には師匠春二が亡くなって、春二型の唯一人の作者となったが、翌58年からは長女のはる美もこけし作るようになった。
平成21年10月怪我をして入院生活を送るようになり、平成22年11月1日、行年79歳で没した。 なお、井上ゆき子の年譜としては〈木でこ・200号〉の近松義昭稿が詳しい。 また、〈こけし手帖・611〉に「井上ゆき子工人の歩みとこけし」が掲載されている。

井上ゆき子
井上ゆき子 (佐藤健兒朗 撮影)

〔作品〕 昭和40年頃の一時的な栄治型を除くと、伝統こけしの製作は昭和43年の鹿間時夫の訪問以降であり、春二型の製作により本格的な製作を開始したと見ると昭和44年以降であろう。
ゆき子の描彩の能力は非常に高かったので、春二の運筆は十分に身につけることが出来たし、古品の復元においても、原物の形式ばかりでなく、その情感さえも十分に再現することが出来た。それ故、東京のたつみ、東観が競って色々な復元の企画を立てたが、四郎・ゆき子夫妻はよくその期待にこたえることが出来た。

〔右より 24.7cm、19.8cm(昭和47年3月)、28.5cm(昭和43年12月)井上四郎名義描彩ゆき子 夢名会頒布 (橋本正明)〕
〔右より 24.7cm、19.8cm(昭和47年3月)、28.5cm(昭和43年12月) 夢名会頒布 (橋本正明)〕

〔22.1cm(昭和47年)(橋本正明)〕春二昭和初年型〕
〔22.1cm(昭和47年)(橋本正明)〕春二昭和初年型〕

系統〕 弥治郎系幸太系列

〔参考〕

 

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