梅木修一

梅木修一(うめきしゅういち:1929~)

系統:蔵王高湯系

師匠:金山文太郎

弟子:梅木直美/筒井良吉/高橋喜代司

〔人物〕 昭和4年3月18日、商業梅木金次郎三男として山形市内宮町横丁に生まれた。昭和18年3月男子国民学校を卒業後上京し、東京府中の日本製鋼武蔵野製作所に入所、終戦まで働いた。戦後山形に戻り、昭和20年9月より叔父の金山文太郎に弟子入りして木地の修業を始めた。この頃は車のロクロや机、椅子の脚等の日用雑器を挽き、こけしは作らなかった。
昭和22年3月より山形県西置賜郡白鷹町鮎貝の店金子伊助が経営していた土産物店の職人となり、新型こけしを専門に挽いた。鮎貝は朝日連峰の登山口に当たり、土産物としての新型こけしの需要があった。このとき筒井良吉に木地の指導を行なった。
昭和29年に山形に戻り、市内鍛冶町で独立開業した。新型が主体であったが昭和31年より旧型こけしの製作も行なうようになった。昭和32年1月に市内泉町に工場を建てて移り、木地業を継続した。この時の弟子に高橋喜代司がいる。
昭和51年に山形のしばたはじめの勧めにより、岡崎長次郎の型を復元した。長次郎の遺族からも了承を得た。昭和53年9月より名古屋こけし会が鈴木鼓堂会長蔵品を中心に梅木修一に継続的な長次郎型復元頒布を企画した。これに続いて伊勢こけし会は昭和54年2月から同様の企画で長次郎型の頒布を開始し、この企画は昭和55年末まで続いた。名古屋こけし会頒布は複数の組み合わせで第12回まで継続され、おもな岡崎長次郎はその大部分が修一によって復元されたことになる。頒布の記録、および解説は箕輪新一により〈木でこ・115号〉(昭和58年1月)にまとめられている。また同様の解説は箕輪新一により〈伊勢こけし会だより〉においても連載された。


この一連のシリーズとしての復元は、梅木修一が蔵王高湯のこけしの本質を具体的に把握する契機となり、それが修一の大きな財産にもなった。
以後独自のバリエーションや組み合わせで蔵王高湯のこけしの製作を続けたが、作品に破綻は生じることはなく、蔵王高湯の重要な作者として地位を確立させた。
昭和62年ころから修一の指導のもとで二女の直美がこけしの描彩を行なうようになり、平成11年ころから本格的に木地も挽きこけしを製作するようになった。山形市泉町の自家工房で父娘でこけし製作を行っている。

梅木修一、直美父子 平成11年9月 鳴子全国こけし祭会場
梅木修一、直美父子 平成11年9月 鳴子全国こけし祭会場


梅木修一 平成29年

〔作品〕昭和31年にこけしを作り始めたころの作は、蔵王高湯系の一般型で、そのころの作例は〈こけし辞典〉に掲載されている。
修一が本格的に伝統こけしに取り組むようになったのは、昭和51年に山形のしばたはじめの勧めにより、岡崎長次郎型の復元を行なうようになってからである。
下掲2本は大正期長次郎(久松保夫蔵)の復元作である。最初はこうした小寸ものから復元を始めた。本人はこうした点状の素朴な目で蔵王高湯の雰囲気が出せるか戸惑ったというが、作品は原物の感覚を良く再現できていた。武田利一により、〈こけし手帖・199〉に紹介された。名古屋こけし会では昭和53年11月にこれを岡長復元第2回として頒布した。


〔右より 14.1cm、14.3cm(昭和51年12月)(橋本正明)〕

下掲の二本も、名古屋、伊勢で長次郎型のシリーズ復元が開始する前後の作である。復元開始当初から、長次郎の作風把握は十分に出来ていた。


〔右より 24.4cm(昭和53年)、21.5cm(昭和54年12月)(橋本正明)〕

下掲2葉は伊勢こけし会頒布のこけしでこうした復元頒布が12回にわたって行われた。
下掲の尺は昭和16年作の久松蔵を復元したもの


〔30.5cm(昭和54年)(伊勢こけし会)〕 伊勢こけし会岡長復元第5回頒布

下掲右端は長次郎晩年(昭和28年作)大浦泰英蔵の復元、左端は小野洸蔵(昭和16年ころ)の復元である。


〔右より 21.2cm、12.1cm(昭和55年)(伊勢こけし会)〕伊勢こけし会岡長復元第9回頒布

名古屋・伊勢でのシリーズ復元の経験から、岡崎長次郎の作風および蔵王高湯の体質を十分理解し、身につけることが出来ているので、以後様々な創意を加えたこけしも安定した作品として作り続けている。


〔右より 27.3cm、24.0cm(平成8年)(高井佐寿)〕

系統〕蔵王高湯系万屋
二女梅木直美が修一の作風を継承している。

〔参考〕

  • 箕輪新一:梅木修一の岡長型復元〈伊勢こけし会だより8~13号〉(昭和54~55年)
  • 箕輪新一:梅木修一の岡長型復元=頒布解説=〈木でこ・115号〉(昭和58年1月)
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