岡崎長次郎

岡崎長次郎(おかざきちょうじろう:1878~1954)

系統:蔵王高湯系

師匠:我妻勝之助/佐藤直助

弟子:岡崎金蔵/山川源吉/佐藤正雄/矢口権佐久

〔人物〕 明治11年10月21日、山形県西村山郡左沢字三乕丙667の農業稲村小市の二男に生まる。幼年期に一家で堀田村高湯に転住し、明治27年17歳のとき、万屋の職人我妻勝之助について木地を修業した。
明治28年には新地の佐藤直助が万屋にきたので、さらに直助に師事し、明治31年直助の帰郷後は遠刈田にまで行って木地技術を磨いたといわれる。遠刈田では佐藤直助、佐藤寅治、青根では佐藤直治、佐藤久吉に影響をうけた。
明治35年ころ高湯に帰り、明治37年岡崎代助の養女そでと結婚し、婿養子となった。金蔵、きよ、まさ、慶二、慶三、中造、七郎、ちよの、八郎、ふじえの六男四女をもうけたが、七郎、ちよの、八郎は幼死した。同年、「木地屋代助商店」を開業、新地・青根から佐藤豊治、子之助、久吉、巳之吉、佐竹林之助などを職人として招き、温泉客相手の木地製品を製作販売した。
明治39年29歳のとき、約一ヵ月日光で大物挽きを修業した。長次郎は養子の関係からか、表面的な仕事は養父にまかせ、職人と共に黙々として働いたという。大正11年養父代助退隠後は、代助の名を引き継いで仕事をしたので、長次郎のこけしは代助名儀で蒐集界に渡った。
大正6年7月より大正10年4月まで鳴子の秋山慶一郎が職人になり、大正後期には長男金蔵、山形の山川源吉、山寺の佐藤正雄、山形の矢口権佐久等が弟子入りした。大井沢の志田卯兵、志田礼二なども職人として働いた。
〈日本土俗玩具集・2〉〈こけし這子の話〉の時代より写真は紹介されているが作者名は発表され
ず、〈日本郷土玩具・東の部〉で岡時代助型と紹介された。
昭和5年ころより木地を休止し、農業に従事、昭和15年より再び木地を再開した。このころ、多くの蒐集家が蔵王で長次郎と接触し、〈鴻・13〉で岡崎長次郎の名と作品鑑別法が紹介された。この時代にこけしを盛んに作り、この時代のものが現存の長次郎の大きな比重を占める。
昭和19年ころ、再び木地を中止した。
戦後は、昭和26年冬より山形の矢口権佐久に木地を挽かせてこけしを描き、27年春と28年3月、29年秋の三回100本位ずつ描彩した。
昭和29年11月7日没、行年77歳。法名釈亮善。

岡崎長次郎  撮影:水谷泰永

岡崎長次郎  撮影:水谷泰永

岡崎長次郎 昭和29年 亡くなる年

岡崎長次郎 昭和29年 亡くなる年

〔作品〕 昭和5年ころこけし製作を中止する以前の前期、昭和15年より19年までの中期、戦後の後期の三期に分類される。
前期の特色は木地が代助商店の職人によるもので、面描を中心に描彩を長次郎が行なっている点にある。代助等長次郎以外の名儀で世に出ていた。
前期のさらに初期、おそらく明治末期の作と思われるものは深沢コレクションにある。下掲の7寸2分がそのこけしで、紫ロクロで胴の上下をしめ、オカツパに逞しい表情を描いている。鼻は垂れ鼻で、オカッパには中ゾリがある。

〔22.4cm(明治末期)(深沢コレクション)〕
〔21.9cm(明治末期)(深沢コレクション)〕

大正期から昭和初期の作は、緑ロクロに変わり、やや優しい表情になった。〈日本土俗玩具集・2〉〈こけしと作者〉〈鴻・13〉〈古計志加々美〉〈こけしの美〉等に作例がある。
〈鴻・13〉によれば 「長次郎の昔語りの中に、『自分は数人の弟子職人の木地に描彩のみ描いたが、いくら古い物でも自分の物は、左下瞼の線が、上瞼線より長く、右眼は普通の人の如く上瞼線が長い』と言うように、ようやく長次郎の作を確認した」とある。
上掲の7寸2分も、下掲大寸も確かに向かって左眼は下瞼線が長く、右眼は上瞼線が長く描かれている。
下掲は大阪の筒井郷玩店で扱ったもの、筒井のこけしは東京の吾八に出され、昭和16年2月の〈これくしょん・31〉で売りたてられた。特に下掲の小寸は8本あまり出されていた。

〔右より 23.6cm、14.2cm (大正中期)(深沢コレクション)〕
〔右より 23.6cm、14.2cm (大正中期)(深沢コレクション)〕

下掲は〈日本郷土玩具・東の部〉に岡崎代助型として掲載されたものと同時期の長次郎。


岡崎長次郎〔22.0cm(昭和初期)(峰村愼吾旧蔵)

下掲2本は中期の作、昭和15年頃こけし製作を再開した時のこけしである。
右9寸には首に涎掛け模様が描かれている。おそらく阿部常松からの伝承であろう。鼻は垂れ鼻ではなく割れ鼻になっている。割れ鼻は佐藤直助からの伝承かもしれない。


〔右より 27.9cm、22.4cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

後期は戦後昭和27年から29年にかけて弟子の矢口権左久の木地に描彩したものである。7寸くらいのものが多く、手絡模様に桜崩しを描いた。

系統〕蔵王高湯系万屋
岡崎長次郎の型は梅木修一、梅木直美父子が継承した。大宮正貴も小野洸の勧めで一時期長次郎型を作ったことがあった。鶴岡へ移った秋山慶一郎のこけしには長次郎の影響がある。

〔参考〕

 

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