奥山広三

奥山広三(おくやまこうぞう:1905~1984)

系統:山形系

師匠:奥山安治

弟子:奥山広志

〔人物〕    明治38年10月24日、山形県西村山郡河北町谷地字松橋の木地業奥山安治四男に生まれる。8人兄弟の末弟である。戸籍表記は廣三。父安治は山形の小林倉治について修業した人。
当時安治はこけし、玩具、雑器、盆等を盛んに挽いており、広三も大正9年16歳より父につき木地挽きを修業した。しかし父に習ってこけしを作り始めたのは父の亡くなる3年ぐらい前からで、大正の終わりからであった。
昭和3年父安治が他界したが、昭和5年ころまでは子供の玩具は引き合いがかなりあった、特に谷地八幡宮の祭礼(9月15日)のためには玩具屋からの注文が多く、こけしの需要も旺盛だった。しかし、だんだんにセルロイドやブリキの玩具に押されて、木地の玩具はほとんど売れなくなっていった。
しかし独楽類はその後久しく需要があり、その後も多く作っていた。
また、正月用の雑器などは盛んに作ったと語っていた。これはぶな板を用い、直径3寸厚さ3分くらいの円形のもので、神棚に餅などを供えるときに使うという。
広三のこけし復活は、昭和14年石井眞之助の要請が起因になった。当時、石井眞之助は熱心に未知のこけし工人を追求していて、西村山郡役場に同地方の木地屋を問い合わせて、奥山広三の存在を知った。石井眞之助の注文でこの年の9月に約70本作った以外は、昭和17、8年に酒田の渡辺玩具店の注文に応じて製作したぐらいで、戦前作は非常に少ない。
昭和16年武井武雄氏により〈こけし通信・1〉で「奥山廣蔵」として名前を紹介された。
その後も自宅で開業していたが、製品は主として指物屋の部分品や将棋盤の腰、茶盆等で、また工場のフレート業なども行っていたため、戦後も長らくあまり名前を知られなかった。
戦後の製作再開は、昭和29年頃しばたはじめの依頼で作ったのが最初であった。昭和32年ころからこけしの注文も増大し、こけしの製作数も多くなった。また、長男の奥山広志も昭和34年頃から木地の修業を始めた。広三は晩年までこけしは作り続けたが、昭和59年4月5日に没した、行年80歳であった。

奥山広三 昭和34年 撮影:露木昶

奥山広三 昭和36年

奥山広三 昭和36年

奥山広三 昭和57年頃

〔作品〕昭和14年9月に石井眞之助が注文して製作再開した以前の作は確認されていない。石井眞之助が取り寄せた何本かの広三作は、鈴木鼓堂など石井眞之助と親交のあった収集家の手に渡った。
下掲写真のうち、右からの2本は鈴木鼓堂旧蔵で石井眞之助経由のもの、特に右端の作は、胴模様の丸花の配置や、下部の根占(菊籬の変形)を北の字状に描く手法が古風であり、安治の作っていた山形系の古いこけしの名残を感じさせる。中央の尺余のものも同じ頃の作であろう。35歳の記入があり昭和14年の作である。
左端2本は昭和17~8年に酒田の渡辺玩具店の注文に応じて製作したもの。

〔右より 25.3cm、14.0cm(昭和14年9月)、31.3cm、17.8cm、24.0cm(昭和15~16年頃)(鈴木康郎)〕
〔右より 25.5cm、14.0cm(昭和14年9月)、
31.5cm(昭和14年)、17.8cm、24.3cm(昭和17~18年頃)(鈴木康郎)〕

下掲は加藤文成旧蔵品であり、調布市郷土博物館の収蔵目録には昭和14年頃としてあるが、おそらくこれも石井眞之助注文と同時期のものと思われる。胴下根占の北の字型模様と丸花の菊が印象的である。


〔 37.0cm(昭和14年)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

下掲左端は50歳の記入があり、数え表記であれば昭和29年の作である。右端は昭和40年の作。おそらく左端の型を再現したと思われる。
ただ、左端の作は広三の戦前、昭和17~18年の作とは繋がらない様式であり、むしろ昭和14年復活初作の作風に近い。目は細く、両端で高く切れ上がっていて甘さが少なく、やや怪異な面白い仕上がりになっている。小林吉太郎の表情にも近い。再復活で先祖帰りをしたのかも知れない。〈こけし 美と系譜〉図版32に川上克剛蔵で昭和39年作の同様の作例がある。この表情を猫目と呼ぶ人もいる。

 
〔右より 25.5cm(昭和40年8月)(田村弘一)、25.5cm(昭和29年)(河野武寛)〕

下掲写真の二本は、いかにも広三らしい落ち着いた作品、戦後の広三の代表的な作例である。


〔右より 18.8cm(昭和38年)、18.5cm(昭和35年)(田村弘一)〕

下掲は昭和43年の作であるが、昭和29年作と同様猫目の面描、注文に応じてこうした作品も作っていた。昭和43年6月の東京こけし友の会例会で頒布された。〈こけし 美と系譜〉図版32の川上克剛蔵をもとに再製作したと言う。長男広志もこの猫目のこけしを作ったことがある。

〔24.0cm(昭和43年6月)(橋本正明)〕
〔24.0cm(昭和43年6月)(橋本正明)〕

作品の出来にはむらがなく、安定した作行のこけしを作り続けた。


〔右より 23.6cm(昭和45年5月)、18.6cm(昭和46年5月)(橋本正明)〕

系統〕山形系
後継者に息子の奥山広志がいたが、平成11年に亡くなって、以後このこけしの後を継ぐものはいない。

〔参考〕

  • 鈴木康郎:談話会覚書(21)鈴木安太郎・奥山広三・神尾長八のこけし〈こけし手帖・650〉(平成27年3月)
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