斎藤太治郎

斎藤太治郎(さいとうたじろう:1869~1945)

系統:土湯系

師匠:西山辨之助

弟子:佐藤正一

〔人物〕 明治2年11月1日、福島県土湯温泉の東屋旅館の斎藤幸吉・ときの二男に生まれる。
父の旅館は兄の孝之介が継いだので、太治郎は学校卒業後、手に職を就けるべく明治19年より22年まで西山辨之助について木地修業をした。兄孝之介の妻キクが辨之助の妹だった縁による。
明治18年、膽澤為次郎が土湯に来て、加藤屋の二階で一人挽きを指導、このときの正規の弟子以外の者たちも盛んに加藤屋の二階をのぞきこみ、驚異的な伊沢の技術を観察した。太治郎は膽澤為次郎や佐久間浅之助についたといわれるのは、間接的影響をいっているらしく、太治郎が漢籍の素養に富んでいたのは浅之助の影響であったかもしれない。辨之助は当時年齢的に土湯木地業の中心的存在であったし、木地技術やこけしの伝授はもっぱら辨之助よりであったと思われる。
明治23年3月25日会津屋の娘たまと結婚、翌23年一子幸太郎が生まれた。その年の7月土湯は大水害に見舞われ、実家の東屋は流出、再起不能の損害をうけた。一族は飯坂湯野に移ることになった。兄孝之介は立町にて雑貨商・質屋を経営、弟米作は石川楼の養子となった。
太治郎は明治31年より33年まで飯坂の湯野小学校教員となった。明治33年7月に教員を退職して、翌34年5月10日に土湯に帰った。土湯では東屋の地に店を開いて木地を挽き、山林等の不動産管理をした。
明治34年妻死亡のため、その妹しをを後妻とした。明治36年より38年まで荒井村助役、同37年渡辺作蔵と共に村会議員、明治38年学務委員、明治40年区長、村会議員等をし、村のインテリとして活動したが、明治42年大水害で店流出、土湯坂ノ上に移った。明治44年10月より大正5年まで土湯小学校代用教員をし、この間聖徳太子の研究をし、〈土湯郷土史〉の予稿を残した。大正2年11月〈土湯村洪水史〉(土湯小学校蔵)を著わす。大正3年にしづ、やぎの双子の女児が生まれた。大正12年ころ上ノ町に移り、こけしを高定商店に出した。このとき土湯名産の栞(「土湯名産実二御目出度挽地玩具ノ福音」)を作成し、買いに来る客に配った。
昭和2年土湯の大火で罹災、自筆の〈土湯郷土史〉焼失してしまった。〈こけし這子の話〉で作者として紹介された。また〈こけし這子の話〉には斎藤太治郎が保存していた古文書の写し、惟高親王説話が紹介されている。
昭和5、6年ころ会津屋にいた佐藤正一の店にこけしを出した。正一は次女きみの夫にあたる。長男幸太郎は製炭業等の山仕事に従事したが、幸太郎に木地は教えなかった。昭和5年幸太郎長男弘道がうまれた。弘道は太治郎の第一孫である。
老齢のため、昭和17年こけし製作を止めたが、それまで第一回こけしブームに際し、彼の巧麗精緻、生気躍動した甘美な作は収集家の目を奪い、土湯の太治郎か、太治郎の土湯かと英雄視された。製作の稀少性とまって生前から高値をよび、収集家の人気の的となった。経歴も反映し、社交的で談話を好み、収集家とよく交際した。自分で楷書体のこけしといっていた。昭和15、6年ころは年に数本しかできなかったが、一作に精魂をかたむけ、小唄勝太郎の微笑を表現するのだといっていた。注文は殺到し、東京の吾ハ入札会にも現われた時は奪い合いとなった。収集家で彼に媚態をし、贈物でせめた人たちも少なくない。
晩年は喘息が持病となり、天気と気分のよいときでないと製作しなかった。昭和17年朝日新聞福島版に「きぼっこに込めた70年の生涯」の記事で扱われ、「魂の育成は三ツ子から大切です。ために生命がけの精進てした。きぼっこにこめた一万の生命はわかって戴けると思います」と語っており、精魂かたむけた一万本製作をモットーとしていた。しかし、昭和17年頃から事実上こけし製作は行なわなかった。
晩年著わした〈温泉盛衰記〉の写しは富士屋旅館にあったが、昭和29年2月の大火で焼失した。
こけしを盛んに挽いたのは大正末年で上ノ町に移ったころである。太治郎は木地屋の家に生まれたのでなく、裕福な旅館の次男として青少年時代を送り、村の有力者インテリとして活動した。水害大火の災害によって生活上やむを得ずこけしを作っていたから、生えぬきの他の木地師たちとは違っていた。中年の頃の飯坂や坂ノ上時代は逆境が続いて生活に苦労したが、そうした暗い影は晩年の彼になかったという。懇切丁寧で物腰の柔らかな晩年の彼には楽隠居の芸術家といった風格があった。鹿間時夫は訪問時の印象を「注文状はさばき切れず、ざるに一杯つんであった。会った本人もまた抜群で、とうてい工人ではなく歌舞伎俳優然としていた。〈こけし鑑賞〉」と書いていた。鹿間時夫が玄関のざるの中で見た注文状の一部は後に回収されて〈こけし手帖・1〉にその内容が紹介されている。
太治郎がその後の土湯こけし工人に与えた影響は甚大なものがあり、戦後の土湯には大治郎の亡霊にとりつかれたような工人がかなりいた。
昭和20年2月13日没、行年77歳。

斎藤太治郎

太治郎04
斎藤太治郎

斎藤太治郎 撮影:加藤文成

〔作品〕明治期の作品は確認されていない。大正中期に代用教員を辞めたころからこけし製作を再開し、大正12年に上ノ町に移って以後、こけしをかなり作るようになって高定商店に出したと思われる。ただ楷書体の丁寧な描法であったため蒐集家の求めには応じきれず、寡作者として知られていた。
太治郎のこけしは次の3期に分類される。
1. 前期:大正末から昭和5、6年
2. 中期:昭和7年から昭和10年
3. 後期:昭和11年から昭和17年頃

下掲は天江コレクションの8寸で〈こけし這子の話〉に掲載されたもの。正面からでは両鬢がほとんど見えないほどに面描を大きく取っている。首は細く直線的に絞られ、赤一本と緑三本のロクロ線で締められている。前期の代表的な作例である。

〔 24.4cm (大正期)(高橋五郎)〕 天江コレクション 〈こけし這子の話〉掲載
〔 24.4cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション 〈こけし這子の話〉掲載

下掲はらっここれくしょん収蔵の7寸。これくしょん目録には、昭和13年に千葉三春町長に30年前のものを貰うとの記載がある。これが正確であれば明治末の作と言うことになるが、この時期には太治郎は村の役職や小学校の代用教員をしており、こけしの製作はしていないであろう。おそらく正末昭初の作と思われる。首は直線的ではなく、カーブを持つようになっており、以後の太治郎の形態に繋がる。

〔21.2cm(大正期)(らっここれくしょん)〕 
〔21.2cm(正末昭初)(らっここれくしょん)〕

武井武雄は、昭和2年頃本郷のフジヤで太治郎を購入したといい、また昭和4年には本人より郵送でも入手している。このころすでに太治郎は寡作で、武井武雄の注文に対して一本しか送って来なかったという。〈日本郷土玩具東の部〉〈愛蔵こけし図譜〉掲載のものは昭和4年入手の7寸7分である。下掲左の8寸7分中屋蔵はこれに近い。


〔右より 23.3cm(昭和初期)、26.4cm(大正期)(中屋惣舜旧蔵)〕

〈こけしの美〉の原色版には米浪庄弌蔵の昭和7年作が掲載されている。首の赤に続く三本線は緑ではなく紫になる。これが中期の作例である。この時期には頭の形態はやや長めになっている。下掲は石井眞之助が昭和7年9月に手紙を出して入手したもの。昭和7~8年頃の作であろう、米浪蔵に続く中期の作である。

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〔 29.1cm(昭和7~8年頃)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵

中期も終わりに近い昭和10年頃に、胴の中央に紫の帯をいれる時期がある。大寸のものには胴中央を紫3本の帯で締めていた。

下掲2本は深沢要が昭和12年秋土湯を訪れて太治郎より入手したもの。後期の作例である。このときの訪問記は〈こけしの微笑〉「老工談」にまとめられている。
このころから太治郎のこけしは目じりがやや下がってくる。媚を売る表情と評した人もいた。


〔右より 26.1cm、26.6cm(昭和12年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

晩年はさらに大げさな表情に変わっていった。鹿間時夫は「後期の太治郎は顔も目も大きく,伏目勝ちの油ぎったにやけた表情となった。本人は小唄勝太郎を意識し,蒐集家の喝采に気を良くしていた。蝋がけの物は磁器の肌を思わせたが老女の厚化粧という批評すらあった。しかしこれは他の工人に真似のできぬ太治郎固有のセンスで,私は昭和13年桜井玩具店で初めてこの式の物(非売品)を見た時の衝撃と,何としても欲しいという飢渇感が背をずうんと走ったのを未だにおぼえている。〈こけし鑑賞〉」と書いている。後期の物であっても蒐集家にとっては渇望のこけしであった。

寡作であった事もあるが、戦前から斎藤太治郎の評価は非常に高かった。
〈こけし這子の話〉では「清新な気分に満ち」と、〈日本郷土玩具東の部〉では「最も異色があり支那人形らしいフレッシュな美しさをもち」と、〈こけしの微笑〉では「明美と整巧,新しい東北の古典に数えられ」などの賛辞を受けている。阿部治助をより評価した鹿間時夫でさえ「太治郎の特質は緻密丁寧な上手物の感覚で、一筆一筆をゆるがせにしないことである。楷書体の極致,土湯甘美派の技巧王である。前髪は中国娘の劉海髪式に整え,青線に紫の波の効いた胴模様は頗る印象的である。太治郎の胴は法隆寺の柱のようなエンタシスを鮮かに示し,フォルムの美は土湯一かもしれない。〈こけし鑑賞〉」と書いた。
太治郎こそは、美の対象としての、大人の鑑賞者を意識しての、こけしを製作した最初の工人であったかもしれない

系統〕 土湯系
いわゆる弟子といえるのは娘婿の佐藤正一のみであるが、太治郎型は佐藤正一のほかに孫の斎藤弘道等が継承した。さらに戦後の土湯には太治郎の作風に影響を受け、それに倣った追随者は多くいた。

〔参考〕

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