佐藤誠孝

佐藤誠孝(さとうせいこう:1947~)

系統:弥治郎系

師匠:高橋精志

弟子:佐藤英之,/佐藤裕介

〔人物〕昭和22年2月22日、佐藤誠、秀子の九人兄弟の末子として会津若松で生まれた。長兄孝は結核のため若くして亡くなった。小説家となった光良は兄で、姉も多い。
父佐藤誠は戦前福島県平市で大きな木工所を経営し、幅広い活動をしていたが、終戦の年に軍部と関係した企業によって強制的に買収されることになった。多くの債務も抱えたために、誠は中島正とともに会津若松で働いた。
誠孝はこのとき疎開先でもあった会津若松で生まれた。 なお、誠孝という名は、父の誠が昭和の始めに使っていた名前である。一字名前はよくないという人があり、誠の下に孝をつけて使った。誠孝は父の使ったこの名をもらった、あるいは若くして亡くなった長兄の名の孝と父の名の誠を合わせてつけてもらったと言われている。
その後父の佐藤誠は、単身で郡山、飯坂、東京、前橋などで働き、さらに、昭和33年に岩手県花巻に移り、やがて二枚橋、平泉などで木工所を経営した。母は父が各地で働く間に小間物屋を開いた。誠孝は県立工業高校に入学したが、早く働いて家計を助けることを考え、自動車整備学校に入って学び、修理工として働いたが、さらに収入のいい船乗りとなるべく日本海技学校へ入学した。卒業後、船員として世界各地を廻った。この間の仕送りもあり、母は旅館業を営むようになった。
昭和45年に父佐藤誠は肝硬変で一ノ関磐井病院で他界した。
この間の経緯は、兄光良が著した〈父のこけし〉に詳しい。
父の死後、その職業であった木地業を継承したいという志が誠孝に生まれた。そこで船員を辞めて番頭として母の旅館業を手伝いながら、昭和47年8月より平の高橋精志のもとに通って木地の修行を行った。高橋精志は横川の高橋精助の三男、精助やその兄小倉嘉三郎に木地の手ほどきを受けたが、本格的な技術は昭和10年ころ平で佐藤誠について学んだ。佐藤誠の技術は精志を経由して誠孝に伝わったことになる。
こけしは昭和49年5月より製作を始めたが、たつみの森亮介による熱意ある協力があり、誠、大野栄治、嘉三郎などの古品と接する機会を多く持つことが出来た。これが誠孝の作品の完成に大きな力となった。昭和50年にはいわき市平に「木地処さとう」を開設し、こけしや木地製品の製作販売を本格的に進めるようになった。
まもなく「木地処さとう」の経営も軌道に乗ったので旅館は他人に譲渡し、木地業を専業とした。
平成14年から長男英之が、平成21年からは次男裕介が木地の技術を学び、こけしの製作を始めた。また妻の美喜子も長男英之と同じ頃からこけしを作り始めている。 平成23年の東日本大震災では被災し、一家は約一年群馬県渋川市赤城町に移転して木地を挽いたが、平成24年の4月に平(福島県いわき市平塩字徳房内)に戻り、「木地処さとう」の営業を再開した。


佐藤誠孝一家  右より美喜子、誠孝、裕介、英之夫妻  
平成30年正月 弥治郎初挽式 撮影:佐藤 健兒朗

〔作品〕

下掲は柴田長吉郎旧蔵の佐藤誠大正末期のこけしを復元したもの。現品の雰囲気を非常によく再現している。
 


〔24.3cm(昭和59年10月)(橋本正明)〕


〔右より 18.5cm、16.2cm(平成5年頃)(橋本正明)〕


〔右より 24.0cm、24.0cm、24.0cm(平成11年)(高井佐寿)〕

 

〔参考〕

木地処さとう
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