鈴木庸吉

鈴木庸吉(すずきようきち:1882~1945)

系統:鳴子系

師匠:高野幸八

弟子:

〔人物〕  明治15年11月1日、宮城県加美郡宮崎村に生まる。母は鳴子の高野幸八の姉。明治29年15歳で鳴子に移り、叔父幸八のもとで木取りや漆塗りを手伝っていたが、 明治31年17歳の夏より幸八について一人挽きを修業した。明治35年21歳の夏には鳴子を離れ、山形県肘折の尾形政治工場の職人となった。ここで遠刈田出身の佐藤周助・佐藤文六とともに働いたが、約三ヵ月後に実家に不幸があり、郷里の宮崎村へ帰った。肘折の生活は短期であったが他系工人との接触の意義は大きく、黄色染料のオーラミンの使用など新技術を身につけたといわれている。一度郷里に帰り兵役についた後、再び鳴子へ戻り高橋万五郎・高野幸八の職人をしたが、鳴子の高橋武蔵や大沼甚四郎は庸吉の黄色の使い方を学んでこけしに応用したという。この間、明治39年25歳のころには岩手県鉛の藤友で働いたこともある。明治42年28歳の秋からは郷里の宮崎村で独立開業し、塗下地を専門に挽いたが、夏季には鳴子へ高野幸八の手伝いに行き、弟弟子の遊佐民之助・松田初見を指導した。また大正中期には高橋寅蔵の木地工場の職人を二年ほど勤めた。宮崎村では大正15年まで木地業を行なっていたが、一時的な他出は多く、東北各地で木地を挽いたことが知られている。大正5年35歳ころには岩手県台温泉で、大正8年38歳ころには青森県大鰐温泉秋山耕作の工場で、大正10年40歳ころには仙台の東北漆器㈱で働いた。東北漆器㈱では同時代大沼熊治郎・健三郎なども職人をしていたという。大正15年ころには山形でも働いた。大正15年45歳より昭和11年55歳までの11年間は、仙台の宮城県工業試験場の講師を勤めた。鳴子の大沼新兵衛も庸吉より一年早く同試験場の講師を勤めていた。退職後は仙台市や鳴子の木地屋を手伝っていたが、昭和14年4月より宮城県滑津の五十嵐木工所の職人となった。五十嵐木工所では地元の小島長治郎らに木地の指導を行った。深沢要氏による発見は、昭和14年9月であり、以後菅野新一・鹿間時夫・水谷泰永の諸氏が滑津に庸吉を訪ねた。名前はくきぼこ・1〉により、作品は〈こけし人形図集〉により最初に紹介された。昭和17年に仙台の娘実 のもとに帰り、昭和20年10月27日66歳で没した。庸吉の聞書は〈蔵王東のきぼこ〉〈こけしの追求〉〈こけし手帖・56〉〈鳴子・こけし・工人〉等に詳しい。古鳴子の木地業を知るために参考となる聞書が多い。
庸吉は、各地を転々として働いたが、「もし鳴子に落ち着いて店を構えていたら、人間も立派であったし、鉋も切れ、品物の出来もきれいであったから、大先生になっただろう。」と大沼岩蔵や高橋武蔵は語っていたという〈蔵王東のきぼこ〉。

五十嵐木工所 右端が鈴木庸吉 撮影:水谷泰永
五十嵐木工所 右端が鈴木庸吉 撮影:水谷泰永 昭和15年

鈴木庸吉 撮影:水谷泰永 滑津にて
鈴木庸吉 撮影:水谷泰永 昭和15年滑津にて

〔作品〕  鈴木庸吉の作品については、〈こけし辞典〉以後二つの大きな事実の判明があった。
まず第一として、深沢要が滑津に鈴木庸吉を訪ねて作品製作を依頼する以前の庸吉作は確認出来ないとされていた。〈こけし辞典〉では「滑津以前の作は知られていない。」と書いた。しかし、西田峯吉が、朏健之助コレクション中に、古い庸吉が存在することを突き止め、松田初見らの検証によってこの作は、高橋寅蔵工場時代の庸吉作と確定した。この事実は西田峯吉により〈こけし手帖・216〉に紹介された。下掲はその朏健之助蔵の鈴木庸吉である。かすかに見える面描は、滑津以降の作に比べて達筆であり、幸八や民之助の古品に近い作風である。大正7~8年の作と思われる。

〔23.3cm(大正中期)(朏健之助)〕 〈こけし手帖・216〉掲載
〔23.3cm(大正中期)(朏健之助)〕 〈こけし手帖・216〉掲載

第二に判明した事実は、従来海谷吉右衛門の旧作として知られていたこけしが実は鈴木庸吉の描彩によるものと判明したことである。下掲の右端7寸3分は橘文策旧蔵で〈こけしと作者〉に海谷吉右衛門旧作として紹介されたもの。木地はおそらく庸吉ではない。あるいは木地のみ海谷吉右衛門であったかも知れない。こけしの注文を受けた吉右衛門が、同じ仙台にいてこけし製作の経験を持つ鈴木庸吉に描彩を依頼した可能性がある。胴模様は鳴子の菊や楓を基調として描いている。左端は天江コレクション中の5寸8分、企画展〈幻想のこけし〉図録では鈴木庸吉名義で掲載されている。

〔右より 22.1cm(昭和7年頃)(鈴木康郎)橘文策旧蔵、17.6cm(昭和7年頃)(高橋五郎)天江コレクション〕 海谷吉右衛門名義、描彩は鈴木庸吉
〔右より 22.1cm(昭和12年頃)(鈴木康郎)橘文策旧蔵、17.6cm(昭和12年頃)(高橋五郎)天江コレクション〕
海谷吉右衛門名義、描彩は鈴木庸吉

以下は深沢要が滑津に鈴木庸吉を尋ねた以降の鈴木庸吉作である。滑津以降の庸吉の作品はA、B、Cの三つに分類されるといわれている。
下掲の深沢コレクションの2本は、昭和14年9月に深沢要が滑津に庸吉を尋ねて依頼したもの。Aに分類される。

〔右より 24.8cm、18.8cm(昭和14年9月)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔右より 24.8cm、18.8cm(昭和14年9月)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲は、昭和15年に菅野新一が滑津に鈴木庸吉を尋ねてこけし製作を以来した時のもの。

〔右より 26.4cm、22.1cm(昭和5年4月)(西田記念館)〕 西田峯吉が菅野新一より譲られたもの
〔右より 26.4cm、22.1cm(昭和15年4月)(西田記念館)〕
西田峯吉が菅野新一より譲られたもの

下掲の二本は名和コレクションの大寸2本、おそらくこれも菅野新一経由のものと思われる。菅野新一のほかに同時期に鹿間時夫も滑津を訪ねている。菅野、鹿間によってもたらされた庸吉をBと分類している。

〔右より 42.4cm、39.4cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 名和コレクション
〔右より 42.4cm、39.4cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 名和コレクション

下掲は、仙台の娘のもとに移ってからの作。面描は細く硬質の筆致になっている。顔の描彩は、庸吉が鉛筆で描いた下絵の上から娘の実が墨を入れたものもあるという。この時代の作をCと分類している。

〔25.1cm(昭和17年)(西田記念館)〕 西田コレクション 後期仙台時代
〔25.1cm(昭和17年)(西田記念館)〕 西田コレクション 後期仙台時代

鈴木庸吉は、幸八の甥、大沼又五郎の姪の息子にあたる。その意味では鳴子の源流に近い。朏健之助蔵品からは明治大正期の古鳴子の凝縮された芳香を感じ取ることが出来る。古鳴子は決して清楚可憐という簡単な表現で一括りに出来るものではない。幸八やこの庸吉古作などは、濃密で艶やかな情趣を湛えている。それは大正期の遊佐民之助にも引き継がれている。滑津における復活以降の作品は、深みのある艶麗な情味こそ薄まっているが、それでも古鳴子の余香を十分に保って魅力的である。

系統〕 鳴子系幸八系列  仙台の石原日出男、鳴子の菅原和平、岸正規が鈴木庸吉の型を作ったことがある。現在では、松田忠雄、松田大弘が庸吉型を作っている。

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