小椋養治

小椋養治(おぐらようじ:1856~1921)

系統:木地山系

師匠:小椋勇右衛門

弟子:小椋泰一郎/佐藤留治/佐藤兼一

安政3年8月15日、小椋勇右衛門の長男として、皆瀬木地山に生まる。養治の家は初右
衛門本家で養治も後に初右衛門と呼ばれた。妻は勇右衛門の兄利左衛門娘カヤである。長男が泰一郎で、長女よしのは佐藤留治に嫁し、佐藤兼一を生んだ。
明治21年、木地山より高松村下新田に移り、父勇右衛門の死後、明治30年ころ一族を連れて川連大館へ下った。弟子には長男泰一郎のほか、小安の佐藤留治が知られている。小安の佐藤留治はよしのの嫁した留治とは別人である。
養治は立木挽きが中心で、こけしや玩具類も作ったといわれている。製品は泥湯、鷹の湯、小安、須川などで売った。
孫の兼一は泰一郎の弟子になったが、養治からもよく指導を受けたという。養治は煙管でタバコをすっていたが、よく居眠りをしたが、そのとき煙管を伝って流れ先端にたまる涎に、兼一がいたずらをして焼け火箸を触れさせてジュッと音を立てると養治が怒るので、兼一は面白がったと語っていた(白鳥正明聞書)。
大正八年ころまで木地を挽いていたという。大正10年旧2月24日脳溢血のため亡くなった。行年66歳。
養治の作ったこけしは確認されていない。

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