西山辨之助

西山辨之助(にしやまべんのすけ:1852~1934)

系統:土湯系

師匠:西山濱吉、膽澤為次郎

弟子:西山勝次、斎藤太治郎、大内今朝吉

〔人物〕  嘉永5年11月13日、福島県信夫郡土湯村上ノ町の西山濱吉、サクの長男に生まれる。名前表記は文献によって「辯」「弁」が使われるが、戸籍上は「辨」が正しい。
父濱吉は佐久間亀五郎二男、土湯の首の回るこけしの創始者といわれる弥七は濱吉の長兄である。妹にクニ、ナヲがいる。父について木地修業、製炭と木地業に従事した。明治18年膽澤為次郎が加藤屋で足踏み技術を教えたとき、34歳年長者として弟子入りしたが、以後木地業に打ちこむようになり、油壷、ランプ台、学校弁当箱、じょうご等を作った。描彩に長じていたので、木でこ製作も好んだ。妻は信夫郡下村の安斎権兵衛の二女ヨネで文久2年10月7日生まれ。シモ、勝次、トク、源助、弥三郎、イト、政次、スイ、トメ、マツの四男六女をもうけた。斎藤太治郎は明治19年頃辨之助について木地を学んだ。
辨之助・勝次は岳の松野屋の職人をしたことがあるといわれているが、その時期、期間はわからない。ただし、辨之助のこけしが岳の松野屋で売られていたのは事実らしい。その縁で大正2年、辨之助の三男弥三郎が松野屋の職人として働いた。辨之助一家の作風は松野屋の大内今朝吉にも伝わっている。辨之助は正直で責任感が強く、昭和2年土湯大火のときは村の会計役であったが、自家の焼けるのもかまわず、村の重要書類や現金を守り表彰された。ずんぐり肥って武骨実直、酒を好んだという。勝次に木地を教えたが、勝次木地に描彩をしていたこともあるという。昭和9年10月12日没、83歳。仁壽辨翁清信士。

弁之助
西山辨之助

〔作品〕 今日残っている最古の物と〈こけし辞典〉で鹿間時夫が紹介したのは、佐久間貞義旧蔵の30.3センチである。明治40~43年ころの作で頭に小豆を入れてある。八郎畠の民家で見つかり、描彩不明になっている。

 
〔 30.3cm(明治40~43年ころ)(佐久間貞義旧蔵)〕 頭部に小豆が入っている。

 同様の古品は石井眞之助旧蔵品のなかにもある。佐久間旧蔵の黒こけしといづれが古いかは不明。やはり頭はくりぬいて小豆を入れている。姿が美しく、頭と胴のバランスは完璧で見事。面長な頭部には、面描の墨が残っており、浮世絵の清長風の流麗艶美な表情がある。口は三筆、この描法は岳の大内今朝吉や斎藤太治郎の口に伝わっている。おそらく辨之助最盛期の作であったろう。


〔 30.2cm(明治期)(橋本正明)〕
石井眞之助旧蔵 頭部に小豆が入っている、口は三筆。

 下掲写真の8寸は、天江コレクションのもの、〈こけし這子の話〉図版5岩代の右端に「西山勝治」として掲載された。面描の特徴などから描彩は辨之助と思われる。これ以降の辨之助は、向かって左眉が上がる癖がある。
蒐集家によって求められ保存良く残った辨之助としては一番古いものであろう。

〔24.5cm(大正期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔24.5cm(大正期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

〈こけしの美〉原色版に掲載された米浪庄弌旧蔵の西山勝治名義の6寸2分も、面描の筆法などから辨之助作とする見解もある。 
また佐久間貞義旧蔵16.5センチは土湯で発見されたもので、大正12、3年の作といわれている。浅之助風の下瞼のはね上がった目は小さく、眉は強く曲がって渋い作風、作蔵と好一対である。佐久間貞義はこの辨之助を戦地に持っていき、これを眺めて長いシベリア抑留生活を耐えた。現在は岩附義正蔵となっている。

 
〔 16.4cm(大正12年頃)(岩附義正)〕 佐久間貞義旧蔵 

 昭和6年9月橘文策が土湯を訪問したとき、同年8月に辨之助が自ら気紛れに挽いた6寸物6本を入手、〈木形子談叢〉で紹介された。下掲写真のこけしはその一本。頭が大きく角張り、ぐらぐら動く。前髪は比較的小さく櫛状。赤と緑の太いロクロ線は岳こけしと同根であることを示している。絵具が淡く木地ににじみ風情が深い。青色蛇の目である。晩年の作で、もはや艶麗さはなく、枯淡あるいは無垢童顔といった表情になっている。

 
〔 17.3cm (昭和6年8月)(箕輪新一)〕 
橘文策入手の物 

〔伝統〕土湯系湊屋系列 辨之助の型は西山憲一大内慎二西山敏彦らが復元した。

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