佐藤栄治(飯坂)

佐藤栄治(飯坂)(さとうえいじ(いいざか):1865~1928)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤常治/佐藤周右衛門/佐藤寅治

弟子:佐藤喜一/根本与市/高田寛/高田徳衛/山田喜一郎/伊藤七太郎/板垣義則/佐藤菊蔵

〔人物〕慶応元年4月10日、宮城県刈田郡八宮村九番地(現在の弥治郎)農業毛利丈助、はるの四男に生まれた。 長兄三治、さらに慶吉、重五郎の兄がいた。明治9年父の丈助が亡くなり、長兄三治が家督を継いだ。 栄治は、明治12年ころより弥治郎の佐藤常治の家に入り木地を修業、明治16年常治が役してからは長男の常吉より習った。
明治21年に佐藤常吉の長女たかの婿養子に入ったのが蔵木村の農家出身の久三郎である。〈こけし這子の話〉の解説では、栄治は「弥治郎佐藤久三郎の弟子」としてあるが久三郎は木地業を継がなかっので、「久三郎の家で木地を学んだ」という情報による記述だったのだろう。
兵役後の明治20年23歳のときに、栄治は遠刈田新地の佐藤寅治について一人挽きを修得した。当時、周治郎と寅治は分家しており、父周右衛門は寅治の家にいたので、形式的には栄治は周右衛門の弟子ということになっている。同時代周治郎の家には、伝内の父佐藤栄治(毛利栄治とは別人)、小妻板の我妻勝之助、寅治の家には、佐藤直治、直助かいた。また、青根の佐藤茂吉の所には土湯の阿部常松もいて栄治と接触していたと思われる。
各地の工人と交流し、一人挽きやロクロを用いた彩色等を学んで弥治郎に帰った栄治は、明治23年12月26歳で飯坂湯ノ町の八幡屋佐藤應助の三女クラと結婚し養子となった。長女カウ、長男喜一、二女浪栄が生まれた。
少したつと飯板に川俣屋佐藤重兵衛という木地屋も出来て、十綱橋をはさんで八幡屋佐藤栄治と木地の技術を競ったという。
明治32年に養父應助がなくなったので栄治が家督を継いだ。
佐藤栄治の弟子では、根本与市、高田寛、高田徳衛、山田喜一郎、伊藤七太郎、板垣義則、佐藤菊蔵などが知られている。山田喜一郎はその後独立して山田屋という旅館兼業の木地屋を飯坂で始め、あやめこけしも作った。長男喜一も明治末年より木地の修業を始めている。弟子のほか職人の出入りも多く、渡辺求も大正末期に栄治のもとで働いた。昭和3年12月1日飯坂字十綱町にて没した。行年64歳。

〔作品〕飯坂八幡屋のこけしは古くから知られており、大正2年刊の〈うなゐの友六編〉にも「岩代國飯坂製こけし這子 当地にて木人形といふ」として飯坂八幡屋の作と鯖湖の角治の作2本が紹介されている。
ただし、八幡屋のこけしは、栄治も長男喜一も明治41年頃から併行してこけしを製作しており、しかも栄治生存中の作品は全て栄治名義として求められていたので、どちらの作かの確定は昔から難物とされていた。〈こけし研究ノート・Ⅱ-NO.3〉では栄治と喜一の鑑別を主に鼻と口の描法で行なっており、おおむね妥当であるがこれも絶対的なものではない。
下掲6葉の写真は、従来全て佐藤栄治の作と見做されていたが、〈木の花・31〉連載覚書では上の4葉(高橋、橋本、深沢6寸、鈴木鼓堂)をA型、下の2葉(鹿間、深沢2本)をB型として、A型は佐藤栄治作、B型は佐藤喜一作とする見解を示した。
従来、佐藤栄治の最も優れたこけしで代表作と見做されていた鹿間旧蔵品(料治熊太が飯坂の遊郭で遊女から手に入れ、渡辺鴻の手に渡って〈古計志加々美〉に載り、鹿間時夫が譲り受けて満州に渡り、引き上げの際リュックの底に入れて持ち帰ったという伝説的な一品)までB型とされたので〈木の花・31〉連載覚書の見解は一つの衝撃であった。
この分類が決定的なものかまだ決着がついているわけではない。ただA型とB型は決定的に筆致が異なり、また後の喜一の作風とも差がある。ただ下記6葉のこけしのうちで何本かが栄治の作であることは確かであろう。


〔 23.3cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション


〔 18.5cm(大正末期)(橋本正明)〕


〔 18.8cm(大正末期)(日本こけし館)〕深沢コレクション


〔 22.5cm(大正末期)(鈴木鼓堂旧蔵)〕


〔26.3cm(大正後期)(鹿間時夫旧蔵)〕


〔右より 24.2cm、17.9cm(大正末期)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

 

 

〔伝統〕弥治郎系

〔参考〕

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