村井操

村井操(むらいみさお:1912~1980)

系統:津軽系

師匠:村井福太郎

弟子:

〔人物〕  大正元年11月11日、青森県南津軽郡大鰐村湯野川原の木地業村井福太郎の四男に生まれる。昭和2年大鰐尋常小学校を卒業。兄の久雄、鉄雄、猛雄が相次いで早世したので、操が木地業を継ぐことになり、昭和8年22歳より父福太郎について木地の修業を始めた。このころから玩具やこけしを作ったという。
昭和14年〈こけしと作者〉でこけし工人として紹介され、それ以降村井操名義のこけしが蒐集界に渡るようになった。昭和14~15年には相当数のこけしを製作した。
戦後は、飲食店と麻雀荘の「羽衣」を開いて、これを本業としたため、こけしの製作数は多くはない。夜間の仕事であったため、昼間の時間をずっと休息に当てていた。昭和30年以降の操名義のこけしは、福太郎の木地に操が描彩のみ行ったもので、操の自挽きは殆どない。
昭和44年に父福太郎が亡くなった後は、嶋津木工所の新山久一の木地に少しづつ描彩を行っていた。
昭和55年6月5日没、行年69歳。


村井操 昭和18年 撮影:田中純一郎

福太郎の木地に描彩する村井操 昭和43年8月
福太郎の木地に描彩する村井操 昭和43年8月

〔作品〕  昭和8年に木地を始めたころの操の作品は良くわからない。一時期、昭和10年ころに村井福太郎のこけし描彩者小山内清晴が死んだ後の、福太郎の描彩は操ではないかという説があったが、現在ではその筆致から長谷川辰雄の描彩であろうというのが定説になっている。
操名義のこけしで知られるものは殆ど昭和14年に〈こけしと作者〉で紹介された以後のものである。〈こけしと作者〉で、橘文策は村井福太郎の紹介に続けて「近年その子操が彩色をするようになって丸い目となり、頬紅をつけたモダン娘となった。」と書いた。
下の写真の深沢コレクションのものも、〈こけしと作者〉掲載のこけしとほぼ同時期の作。筆の使い方は長谷川辰雄描彩とは違う。しかし、橘が言うモダン娘というよりは、やはり津軽の独特の雰囲気を残した魅力ある童女の表情になっている。可憐というよりは、雪の大地に生きるたくましい童女であろう。

〔24.8cm(昭和14年)(深沢コレクション)〕
〔24.8cm(昭和14年)(深沢コレクション)〕

下掲の7寸3分は福太郎名義で蒐集家の手に渡ったものであるが、描彩は操である。特徴ある横菊が胴上下に描かれる。確かに大きな頬紅も入れられている。

〔22.1cm(昭和14年4月)(西田記念館)〕  村井福太郎名義で蒐集家の手に渡ったもの
〔22.1cm(昭和14年4月)(西田記念館)〕
村井福太郎名義で蒐集家の手に渡ったもの

〔35.5cm(昭和16年ころ)(高井佐寿)〕
〔35.5cm(昭和16年ころ)(高井佐寿)〕

操描彩のこけしは、胴模様が特有の横菊(俗に言う蟹菊)であり、胴中央のロクロ線の上下に対に描かれる。この特徴からすると、〈こけし 美と系譜〉図版91右端、〈こけし辞典〉に福太郎名義辰雄描彩として掲載された鹿間時夫旧蔵の5寸も同じ胴模様であり、村井操の極初期の作例である可能性がある。
なお、田中舜二によれば、操はこの特徴的な横菊のほかに桜なども描いたというがその作例は少ない。

〔18.7cm(昭和43年8月17日)(橋本正明)〕 木地:福太郎 描彩:操
〔18.7cm(昭和43年8月17日)(橋本正明)〕 木地:福太郎 描彩:操

この昭和43年の作は、村井福太郎の木地に、昼過ぎにようやく起きて来た操が描彩を施したこけし。胴底署名は「村井福太郎 八十七歳」となっている。上に掲げた工人村井操の写真は、このこけしを描いているところである。

系統〕  津軽系大鰐亜系。

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