岸正男

岸正男(きしまさお:1903~1981)

系統:鳴子系

師匠:高橋万五郎

弟子:岸正規/川合信吾

〔人物〕 明治36年1月15日、温泉の馬車曳きをしていた岸惣吉(一説には惣太郎)、里のの三男として鳴子に生まれる。母里のは大沼又五郎の孫であり、大沼源太郎の従妹にあたる。明治45年10歳で高橋万五郎の家へ入り、雑用などを手伝った。当時万五郎は花巻で働いていたが、鳴子に時々帰ることもあり、あるとき正男を花巻へつれて行って使った。万五郎は花巻の城に登る途中の長屋を二軒借りて、一方を仕事場として使っていた。正男はここから小学校に通い、また子守をさせられたりした。当時は万五郎の職人としては、遊佐民三郎、伊藤松三郎、小松五平、遊佐平治郎、遊佐吉男などがいた。またその頃、臺には高橋寅蔵がいたので、花巻で挽いたものを臺に卸したりしていた。岸正男はさらに大正2年11歳のとき、万五郎一家について盛岡片白町に移った。花巻、盛岡時代には万五郎一家の雑用をしながら小学校に通っていたので、木地の指導は全く受けていない。その後、実家のつごうで鳴子へ戻った。大正8年17歳のとき、万五郎が鳴子へ帰ってきたので、改めて木地の弟子となった。このときにこけしも作ったという。大正11年20歳ころ、鳴子木地講習所(宮城県工業講習所)に入り丹野勝次に盆挽きを習った。この後、盆専門になり、茨城や平の盆作り工場で働いたこともある。茨城では木材に色料を流し込む工場(盆作り)に一年半、平の丸木にも一年半ほどいた。昭和13、4年深沢要、渡辺亜沙両氏のすすめで、秋山忠の木地にこけしの描彩のみを復活した。戦争中は木地業を一時中断したが、昭和22年ころよりこけしを木地描彩共に復活させ、鳴子町湯元で土産物屋岸商店を開業して店頭でこけしを作り続けた。弟子は長男正規のほか、川合信吾がいたが、信吾はまもなく転業した。初出文献は〈こけしと作者〉。
昭和56年3月26日没、行年79歳。

岸正男 昭和42年

岸正男 昭和42年

〔作品〕 戦前作は秋山忠の木地が多い。胴裏に「馬」と署名し、大まかな描彩でとぼけた味を出していた。この署名は父が馬車曳きであったことに因む。〈こけしと作者〉では「情味に於て鳴子随一」と好評であった。

〔右より 18.8cm、27.2cm(昭和14年)(鹿間時夫旧蔵〕 木地は秋山忠
〔右より 18.8cm、27.2cm(昭和14年)(鹿間時夫旧蔵)〕 木地は秋山忠

下掲は、西田峯吉が昭和14年11月に中山平に大沼岩蔵を訪ねた帰途、鳴子で岸正男に作ってもらったもの。製作の経緯は〈こけし手帖・78〉の「思い出のこけし」に詳しい。胴の下部ではなく上部にカンナ溝がある点、頭頂が平らである点から木地も自挽きと思われる。

〔19.7cm(昭和14年11月)(西田記念館)〕
〔19.7cm(昭和14年11月)(西田記念館)〕

戦後は、大分繊細になったが、ひなびた味をよく残し、特に黄胴のものに見るべき作がある。昭和38年頃一時こけし製作を中止していた時期があるが、昭和40年5月に再開以後は最後まで製作をつづけた。昭和44年戦前の正男尺を復元したことがあった(下掲写真中央)。染料もよく滲んだ佳品であった。この復元作も胴底に「馬」と署名されている。

〔24.4cm(昭和40年4月)こけし再開初作、26.7cm(昭和44年)戦前の自作復元、21.8cm(昭和42年8月)(橋本正明)〕

〔右より 24.4cm(昭和40年4月)こけし再開初作、26.7cm(昭和44年)戦前の自作復元、
21.8cm(昭和42年8月)(橋本正明)〕

[伝統〕鳴子系金太郎系列
 長男岸正規、孫の岸正章が後継となった。

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