佐藤周治郎

佐藤周治郎(さとうしゅうじろう:1857~1898)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤周右衛門

弟子:井上藤五郎/佐藤栄治/我妻勝之助/小椋豊之進/佐藤周吾

〔人物〕  安政4年8月27日、佐藤周右衛門長男として遠刈田新地に生まる。明治元年より、父周右衛門につき二人挽きロクロを修業した〈蔵王東麓の木地業とこけし〉。明治20年より弟寅治が周右衛門や周治郎につき木地挽きを始めた。明治12年刈田郡関村の小椋栄三郎長女「里う」と結婚し、同14年次男周吾が生まれた。明治17年、父周右衛門より家督を相続し、周右衛門や弟の寅治、直治、直助、直蔵は現在の護の家へ分かれた。明治18年田代寅之助入村に際し、周治郎家を代表して一人挽きを学んだ。翌19年、肘折の井上藤五郎が、20年には弥治郎の従弟佐藤栄治が弟子となり、新技術を伝承した。明治20年より大宮源八工場の職人を勤め、明治29年から2年間青根小原工場で働いた。この間、24年には我妻勝之助、26年には横川の義弟小椋豊之進と、次男周吾に木地を指導した。明治31年4月17日新地にて没した、42歳。蔵王高湯で職人をしたと伝えられる〈蔵王東の木ぼこ〉が、年代は明らかではない。

〔作品〕 〈蔵王東麓の木地業とこけし〉によると二人挽き時代にこけしや玩具を作ったのは茂吉家と松之進家だけで、他の家は多く横木の鉢類、盆類が主だったという、また同書に「周治郎は白木のこけしを持参して、松之進の母いちに描彩をたのんでいた」とあることから、周治郎は横木専門であまりこけしは作らなかったと考えられていた。しかし、こけしを作らないと言われた周治郎の弟直治、直助は立派なこけしを作るし、弟子の井上藤五郎、佐藤栄治(弥治郎)、我妻勝之助もこけし作者である。また、直助も「周右衛門が作った盆とこけしとやみよが伊達藩主お買い上げの光栄を得た」、「家伝の業で父兄が教えた最初は木取りや玩具の着色だった」とも語っていたので周右衛門の家もこけしは作っていたであろう。
最近は、むしろ周右衛門の家は松之進家、茂吉家とならんで、遠刈田こけしの重要なグループを形成していたのではないかと言われている。
写真のこけしは、南北堂の佐藤祐彦が昭和初年に遠刈田で古くなったこけしを手に入れたもの、菅野新一の手を経て今は高橋五郎蔵となっている。このこけしは作者不明であるが、明治初期の二人挽き時代のこけしであろう。現時点では周右衛門一家の可能性が一番高いと考えられている〈こけし手帖・574〉。
確かに、このこけしの撥鼻の手法は、弥治郎の栄治の息子たち、伝内・勘内と共通するものであるし、近年発見された井上藤五郎(柿崎藤五郎)の描き方とも繋がる。おそらく周右衛門家の古い手法であり、このこけしが周右衛門一族の手になることを支持するものと言える。周右衛門・寅治の可能性もあるが、ここではこの撥鼻こそ勘内・伝内、井上藤五郎への祖型とみて、この写真のこけしを「伝佐藤周治郎」として紹介する。

伝佐藤周治郎

伝 佐藤周治郎 〔20.9cm(明治初期)(高橋五郎)〕

〔伝統〕 遠刈田系周治郎系列

参考: 蔵王東麓のこけし描彩の系譜