大沼甚四郎(おおぬまじんしろう:1882~1944)
系統:鳴子系
師匠:大沼岩蔵
弟子:大沼俊春
〔人物〕 明治15年9月20日、鳴子町上鳴子に生まる。木地業大沼甚三郎、わきの二男。岩蔵は兄、甚五郎、万之丞、健三郎は弟である。小学校卒業後岩蔵について木地修業、父甚三郎を助けて木地業に従事したが、徴兵検査を受け明治35年より3年間兵役に服した。
除隊後3年ほど家で働いたが、明治40年26歳の時岩手県鉛温泉へ行き、同地の藤井幸左衛門のところで3年間働いた。この間にもよと結婚した。明治42年には花巻に移りここでも木地を挽いた。鉛、花巻でもこけしを作ったが、鳴子のようには売れなかった。
明治44年30歳の時北海道に渡り各地を転々として働いた。大正14年44歳の時、洞爺湖に落ち着き、土産物店を開業した。その当時は洞爺湖畔に七軒の家しかなく土産店の草分けであった。夫婦には子供がなかったので、昭和9年板垣志治郎の三男で当時6歳の俊春を養子にもらって育てた。板垣志治郎は妻もよの親戚で洞爺湖で桶樽製造業を営んでいた。
北海道に渡ってからは、こけし製作を行っていなかったが、昭和15年12月深沢要の来訪があって、その要請で40年ぶりに二本製作した。
昭和16年8月に一時鳴子の桜井万之丞を訪ね、その折万之丞木地に2~3本描彩した。甚四郎は心臓病を患っていたので、この鳴子訪問で療養の便も考えて鳴子へ帰る決心をした。洞爺湖畔の土産物店をたたみ、昭和17年に鳴子に戻った。最初は上鳴子の大沼健三郎の家の近くの家を借りたが、18年には赤湯温泉に移った。赤湯ではこけしを描きながら、仙台の病院に通った。
昭和19年9月23日妻もよが腸捻転で急死したので、赤湯の家をたたみ、俊春と共に鳴子町新屋敷の妹はるよの家の一室に寄宿したが昭和19年12月10日没した。行年63歳。
〔作品〕大沼甚四郎の残る作品はきわめて少ない。鳴子の深沢コレクションに鳴子時代の甚四郎と判定される物がある。これは〈こけし辞典〉の写真撮影中に作者不詳の鳴子こけしの中から見つけ出され、その校正段階で甚四郎の項目中に急遽挿入することができた。下掲の写真がそのこけしで、林若樹旧蔵品。一ノ関産の背文字がある。かぶら型の大頭で肩低平、一筆目で大きく二筆で描かれた鼻、三筆の鬢で、正面菊二箇を大きく描いている。決め手の一つは鬢の描法で、内側が短く、外に行くほど長く描く鬢は洞爺湖で描いた二本にその通りに残っていた。製作年代明治30年代、このこけしは明治39年5月の上野公園5号館で開催された「こども博覧会」に出品された。また同年11月京都岡崎町博覧会館で開催された「こども博覧会」にも出品、その図版に紹介されている。甚四郎20歳頃の作品と思われる。この型を佐藤実が昭和45年春に復元している。
〔 24.8cm(明治30年代)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
下には、昭和15年12月に深沢要が洞爺湖で甚四郎を訪ねあてて作ってもらった2本を掲載する。深沢コレクションと西田峯吉コレクションに現存する。
〔 25.7cm(昭和15年12月)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔 25.8cm(昭和15年12月)(西田記念館)〕 西田峯吉コレクション
鳴子に帰ってからは、上鳴子時代には主に大沼健三郎、赤湯時代には桜井万之丞の木地に描彩を行った。下掲の二本は右が万之丞木地、左が健三郎木地と思われる。
〔右より 24.8cm(昭和18年)(都築祐介旧蔵)、20.3cm(昭和17年)(星野京旧蔵)〕 〈こけし写譜・3〉掲載
〔系統〕 鳴子系岩太郎系列
甚四郎の様式は大沼俊春、佐藤実、桜井昭寛などが継承した。
〔参考〕
- 木人子閑話(5) 「お茂ち屋集 全」と大沼甚四郎
- 明治39年11月京都岡崎町博覧会館で開催された「こども博覧会」図版