小倉嘉吉

小倉嘉吉(おぐらかきち:1865~1925)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤栄治

弟子:小倉嘉三郎/小倉精助/小倉朝吉/小倉茂松

宮城県刈田郡福岡村弥治郎のこけし工人。ただし作品は未確認である。
慶応元年5月7日、弥治郎北73番地の農業木地業小倉嘉蔵、よしの長男に生まれる。父嘉蔵は嘉七、くまの長男。小倉家は代々木地師で、享保16年の山之合判に記載されている加右衛門はじめ代々加右衛門あるいは嘉右衛門を名乗っていたようであり、家督の名前には嘉の字が付く場合が多かった。


山之合判 屋じろ(弥治郎)として三人の名がある

嘉吉は二人挽きロクロで木地挽きを始めたが、同村の佐藤栄治が遠刈田で一人挽きを習得して帰ったので、栄治より指導を受け、明治23年ころから足踏みロクロを使うようになった。母のよしは刈田郡深谷村の佐藤勇治の長女であるが、綱取りも受け持ち、また描彩も手伝ったという。弥治郎の女性描彩者のうち一番上手とされていた。
嘉吉は明治16年に八宮上屋敷の日下清蔵の六女志けと結婚し、嘉三郎、精助、朝吉、茂松、志けの、よしのの四男二女をもうけた。男児には全部木地挽きを教えたが、嘉吉自身は木地挽きは得意でなく、山仕事で木取りばかりしていたともいわれる〈こけし手帖・46〉。
明治28年の内国勧業博覧会には、小倉嘉吉が「独楽」を出品した記録がある。


第四回内国勧業博覧会出品目録(明治28年)
人形を出品 刈田郡福岡村 小椋嘉吉

大正14年3月5日没、61歳。

作品は確認されていないが、嘉三郎の梅こけしではなく、嘉三郎、精助の小寸(ペッケ)に近いものを作っていたと思われる。

〔参考〕

  • 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)

 

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