秋山耕作

秋山耕作(あきやまこうさく:1881~1954)

系統:鳴子系

師匠:秋山忠

弟子:秋山耕一郎

〔人物〕  明治14年12月18日、宮城県遠田郡涌谷の商業秋山清八郎・らんの長男に生まれる。秋山忠、慶一郎、清作は弟である。秋山家は代々士族であったが、維新後は一族北海道に渡り、清八郎家のみが墓守りに残った。 清八郎一家は、明治31年耕作が18歳のころに一家で鳴子に移った。明治39年、弟の秋山忠より技術を習得した。明治35年ころ栗原郡高清水の梅崎利助長女とらよと結婚した。とみよ、こはる、耕一郎、耕二郎、マサコ、みさ子、耕造が生まれた。父清八郎は鳴子に秋山木工所を創設し、耕作もずっとこの工場で働いていたが、父清八郎と意見が合わず、大正2年南津軽郡蔵館に行って独立開業、さらに大正5年ごろ大鰐へ移った。蔵館時代には大沼甚五郎・熊治郎が、大鰐時代には鈴木庸吉が職人として働いたことがある。
大正12年7月父清八郎の死後一家で鳴子へ帰り、独立して木地挽きを続けた。長男耕一郎が弟子となって木地を学んだのはこの頃である。〈こけしの追求〉によれば、昭和14年ごろからこけしを挽き始め、妻とらよの描彩および合作のこけしが、及川・沢口・門脇の各土産品で売られたという。 〈鴻・5〉の産地ニュースで秀島孜氏により紹介されたが、文献に写真が掲載されたことはほとんどなく、〈こけし辞典〉に久松蔵の写真があるくらいであった。昭和29年2月28日鳴子没、行年74歳。
津軽の蔵館、大鰐で10年近く働き、その作業場には鳴子からこけしを作る工人も来ていたので、耕作の存在は津軽のこけしに対して鳴子の様式を移入する契機となった。


秋山耕作 昭和17年11月 撮影:田中純一郎

〔作品〕  昭和14年ごろから約3年間作られた夫婦合作が知られているのみで、作品数は 多くはない。こけしは弟の秋山忠の型から出発していると思われるが、特段際だった特徴もなかったのと、夫婦合作として紹介されたので収集家の関心を引くことはあまりなかった。
下掲の西田コレクションおよび高井佐寿蔵品はともに昭和16年の作。とらよの面描であり、戦前の鳴子のこけしの平均的な作風を示している。

〔21.2cm(昭和16年)(西田記念館)〕胴底に61歳の書き込みあり
〔21.2cm(昭和16年)(西田記念館)〕胴底に61歳の書き込みあり

〔16.2cm (昭和16年)(高井佐寿)〕
〔16.2cm (昭和16年)(高井佐寿)〕

〈こけし山河・41〉の記載によると、昭和18年に米浪庄弌が秋山忠を伴って耕作を訪ねたところ、耕作は描彩をしたことがないというので頼み込んで耕作木地に本人描彩8寸2分と7寸2分の2本を作ってもらったとある。下掲は米浪庄弌旧蔵で、他の秋山耕作(とらよ描彩のもの)とは筆法が異なっているので、これがその時の7寸2分と思われる。


〔21.8cm (昭和18年1月)(ひやね)〕 米浪庄弌旧蔵

系統〕 鳴子系岩太郎系列

〔参考〕

[`evernote` not found]