岩本芳蔵

岩本芳蔵(いわもとよしぞう:1912~1973)

系統:土湯系

師匠:岩本善吉

弟子:瀬谷重治/荒川洋一/三瓶春男/柿崎文雄/渡辺長一郎/斎藤徳寿/福地芳雄

〔人物〕 明治45年1月8日、栃木県鹿沼に生まる。木地業岩本善吉、シゲの二男。父善吉は芳蔵が生まれた時に田舎芝居の一座にいて行方がわからず、シゲの叔父戸内仁三郎の戸籍に入れたため、戸籍上は戸内芳蔵であった。小学校4年12歳のとき喜多方より中ノ沢に移り、6年生のとき磯谷直行工場で木取りを修業した。
大正13年6月~9月の期間に中ノ沢で開かれた県の木地講習会を受講し、佐藤豊治の指導を受けた。喜多方、会津若松、樋の口、中ノ沢より9人の生徒が集まった。氏家亥一はこの時の兄弟子である。
昭和元年中ノ沢小学校卒業し、同時に父につき木地の修業を開始、盆や茶壷を挽いた。
16歳のとき木地挽の仕上げを父に見てもらったが、「もう少し削れ」と言われたので削ったところ穴が開いてしまった。すると父から「音で分からないのか」とウシで頭をなぐられたことから家を出て、西村屋で泊り込んで遊んで帰った。すると荷物が行李につめられていて、日光木地師宛の依頼状がのせてあったので、翌朝家を出て、東京に行った。次いで日光に行ったが依頼先の木地屋が見つからず、いったん石屋町の木地屋の職人となったが、やがて父の依頼先を見つけて、その手塚木工場に入り、さらに6月塩原の新田正吉工場に移って働いた。
その後、鈴木庄吉のひょうたん下駄製造の職人として招かれ、ゆうの原に移ったが、庄吉の娘と結婚をせまられたので東京に出奔した。11月からは箱根湯元の小川助治郎工場で働いた。1日550箇の日月ボール(けん玉)を挽いた。普通の職人は400が限度だったが、550を挽いてしかもまん丸に挽けたので評判になったという。
17歳の時、中ノ沢に戻ったが「印刷インクのことを覚えてこなかった」と父に追いかえされ、岩代熱海にいた妻をつれ再び小川工場に戻り働いた。20歳で長女が生まれ、昭和7年21歳のとき中ノ沢に戻った。白い手の木地屋は家の敷居をまたぐことは相成らんと善吉に言われ、やむなく土方や営林署の仕事をした。
やがて磯谷の工場の職人となったが、磯谷とそりが合わず、工場を離れて家に戻った。「敷居を跨ぐなと言ったのに何故そこに居る」と善吉に詰問されたので、「はい、足を揃えて跳んで入りました」と言ったところ善吉は笑って許したという。善吉にも孫娘と暮らしたいという気持ちがあったようだ。芳蔵は自家に戻ってロクロに向かい、茶櫃、盆、椀などを挽いて会津若松に卸した。中ノ沢に落ち着くまでに都合63軒の木地屋を渡り歩いたという。
昭和8年22歳のころより、こけしを作ったが、善吉から人の真似をせず自分のこけしを作れといわれて独自の型を作った。昭和9年に父善吉が亡くなった。酒井正進、本多信夫、安藤良弘の木地下は多くを芳蔵が挽いた。
戦後は福島県耶麻郡猪苗代町樋ノ口の田村材木店などで働いた。昭和28年に瀬谷重治がやはり職人として田村材木店に入ったので木地の手直しの指導を行なった。
昭和31年に小野洸の強いすすめで善吉型の復元を行い、以後蒐集家の依頼に応じて各種の善吉型を製作した。弟子入りを希望するものも多く、荒川洋一三瓶春男はじめ親戚筋にあたる柿崎文雄が善吉型のこけしを作るようになった。さらに、渡辺長一郎、斎藤徳寿、福地芳雄なども指導を受け、「蛸坊主」といわれる型の作者陣は一大勢力となった。昭和46年には「たこ坊主会」が結成され、翌47年正月に横浜・東京の百貨店から実演依頼があり、何人かの弟子を連れて参加した。
晩年は中風の傾向があり、作品数は少なくなった。
昭和48年2月11日没、行年62歳。


岩本芳蔵 昭和16年10月17日 撮影:田中純一郎

岩本芳蔵夫妻:昭和34年12月(山本侘介撮影)
芳蔵と妻ウメ:昭和34年12月(山本侘介撮影)

岩本芳蔵と戸の内ウメ
岩本芳蔵とウメ

〔作品〕岩本芳蔵を作者として最初に紹介したのは〈木形子談叢〉であるが、掲載された写真は酒井正進型の3本(安藤良弘描彩という)であった。この木地は芳蔵が挽いたものと思われる。
芳蔵の作品を正しく紹介したのは昭和13年の〈木形子・2〉である。
作風は善吉とは異なり、下掲右2本のように安藤良弘の図案を応用したものであった。製作当初のものものは、このような様式で、頭頂の扁平なものが多かった。左2本は昭和13年頃の作、芳蔵は戦後昭和30年ごろまでこうした様式のこけしを作った。昭和10年代前半は鼻が長く、上端が目の位置より高く始まる。


〔右より 26.5cm 、14.8cm (昭和11年頃)、18.1cm、24.0cm(昭和13年頃)(小野洸旧蔵)〕

下掲の深沢コレクションのころになると表情は柔らかくなり、童顔の表情が戦後昭和30年頃まで続く。小寸のため一筆目、猫鼻で芳蔵としては珍しい面描。


〔 12.1cm(昭和15年)(日本こけし館)〉 深沢コレクション

なお、岩本芳蔵は戦前は描彩をあまり得意としていなかったので、芳蔵の木地に平井盛、酒井正進、本多信夫、安藤良弘などが描彩をしていて、その一部は芳蔵名義で蒐集家の手に渡っていたので注意を要する。また「人の真似はするな」と善吉から言われていたので昭和31年まで「蛸坊主」の型は、作らなかった。
戦後のものは、戦前と様式は共通するが鼻が短く描かれるようになる。

〔24.9cm(昭和15年ころ)(ひやね)〕
〔24.9cm(昭和30年ころ)(ひやね)〕

昭和31年、小野洸が繰り返し説得して芳蔵に「蛸坊主」の岩本善吉型復元を要請し、芳蔵もようやくそれに応じるようになった。下掲右端は戦後に善吉型の復元を始めて間もない時期のもの。昭和30年後半には各種の善吉型の復元を行い、東京こけし友の会の例会などで頒布された。復元作は〈こけし 美と系譜〉図版65に大きく取り上げられ、成功した復元の事例として紹介されている。
芳蔵の善吉型、高橋盛の勘治型、岡崎直志の栄治郎型は戦後の三大復元と言われ、以後これに続く多く工人によって復元が試みられるようになった。

〔右より 21.5cm(昭和32年頃)、24.7cm(昭和37年)、15.1cm(昭和38年頃)、20.7cm(昭和40年)、26.5cm(昭和37年)(橋本正明)〕
〔右より 21.5cm(昭和32年頃)、24.7cm(昭和37年)、15.1cm(昭和38年頃)、20.7cm(昭和40年)、26.5cm(昭和37年)(橋本正明)〕

芳蔵は善吉型の他に、一時、磯谷直行型を作ったこともあるがこれは例外的な試行だった。
昭和40年代になると中風の傾向が出て、筆は進まなくなり、また製作数も減少した。

系統〕土湯系中ノ沢亜系  継承者を多く育てて、今日の「蛸坊主」作者陣の隆盛を築いた。
ただし芳蔵は戦前は「蛸坊主」のこけしを作らなかったので、岩本善吉が昭和9年に亡くなった後、長い断絶の期間をへて昭和31年に芳蔵により再び「蛸坊主」が復活したことになる。

〔参考〕

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