岡崎栄治郎

岡崎栄治郎(おかざきえいじろう:1872~1937)

系統:蔵王高湯系

師匠:佐藤久吉

弟子:岡崎久作/岡崎栄作/岡崎久太郎/斎藤松治/荒井金七/太田伊三郎/山川源吉/伊藤泰輔/村上周蔵

〔人物〕   明治5年5月10日、山形県羽前国南村山郡高湯村30番地(現在の蔵王温泉)能登屋岡崎栄吉・可能(かの)の四男に生まる。家は代々嘉平治で、父栄吉も嘉平治を襲名、戸籍名は嘉平治であるという。父の嘉平治は蔵王を山越えして仙台方面へ果物を運び、帰りに魚を仕入れて高湯で売るといった商いをしていた。兄久作(元治元年生まれ、栄治郎より8歳年長)も父とともに青根・仙台方面に仕入れに出かけていたが、同じ温泉場である青根・遠刈田の木地業を見て、蔵王でも木地業を起こすことを考え、弟栄治郎を修業に出した。明治20年16歳の栄治郎は一年間の扶持もちで青根の丹野倉治の工場にいた佐藤久吉の弟子となった。当時の青根には佐藤茂吉・佐藤幸太・菊地勝三郎などが働いていた。翌明治21年修業をおえて蔵王温泉に帰ると、それまで辻屋旅館(現在の大平ホテル)の別館付近に魚屋を出していた久作は、現在のところ(高湯36番地)に分家して土産店能登屋を開業した。栄治郎は兄久作に木地技術を伝え、まもなく万屋に来た職人阿部常松・鈴木三吉とともに蔵王高湯の木地業の基礎を 築いた。一説によると栄治郎も一時万屋の職人をしていたというがその詳細はわからない。その後能登屋には多くの職人が出入りし、弟子も多く養成した。栄治郎の能登屋時代の弟子としては兄久作、甥栄作・久太郎、斎藤松治、上ノ山の荒井金七・太田伊三郎、山川源吉などが知られている。
明治29年、高湯20番地岡崎忠五郎長女たきの入婿となった。大正元年山形市材木町(あるいは銀町)に移り、旅龍町の田崎弥蔵の職人となった。田崎家具店には一年半ほどいて、その後山形市七日町字柳町の旭座前で独立開業した。この時期にはこけしも作り、弟子として伊藤奏輔・村上周蔵、職人として桜井万之丞・山川源吉などが働いた。大正5年の秋、北海道天塩町の有志が産業振興のため道庁の後援で木工品伝習所を開設したが、その講師として栄治郎が招かれ単身で渡道した。1年後家族を呼び寄せたが大正8年に伝習所が火災に逢い、やむなく独立開業して、船具・玩具などを作った。大正13年には稚内に移って開業、次男栄蔵も手伝っていたが昭和6年に札幌に出てカフェーを開店、昭和8年栄治郎も札幌に移った。さらに昭和10年栄蔵は江別市に転住し料理屋を経営、栄治郎夫婦はしばらく札幌に残ったが、その年の暮れに妻たきが亡くなったので翌11年江別の栄蔵のもとに移った。昭和12年5月29日没、享年66歳。
栄治郎は札幌時代に荒井金七の情報により所在をつきとめた東京こけし会の川口貫一郎によって紹介頒布され、橘文策の〈こけしと作者〉で最初に工人として取り上げられた。

岡崎栄治郎 昭和10年

岡崎栄治郎 昭和10年

〔作品〕  栄治郎のこけしは蔵王高湯時代と札幌時代のもののみ確認されている。山形時代のものは確認されていない。
蔵王高湯時代の一手は仙台屋に伝わった二本で、うち一本は故秀島孜氏の努力により収集界に渡り、現在東京こけし友の会蔵(下掲の写真)になっている。仙台屋では明治29年六代目茂助が42歳の厄年にあたり、厄落としのため飾った小正月のダンゴの木より二本のこけしの製作を岡崎栄治郎に注文した。このこけしは次々に死んだ茂助の子供を供養するため3月節句の雛壇に飾る目的であった。〈こけし加々美〉〈こけしの美〉などで有名になり、現存のこけしのうちで年代のはっきりしている最古の作として知られる。破綻のない見事なバランスの完成度の高い逸品である。一方で、これは雛祭り用の特別注文であり、この形態が通常のこけしとして一般的なものであったと思われない。

〔32.1cm(明治29年)(東京こけし友の会)〕
〔32.1cm(明治29年)(東京こけし友の会)〕

蔵王高湯時代のもう一手は下に写真を掲げる米浪庄弌旧蔵の尺で、〈こけし 美と系譜〉により紹介された。この作はやはり雛祭りに飾られたものというが、かなりオーソドックスな作風で、初期の蔵王高湯系の典型と考えられる。量感にあふれてバランスもよく、典麗絢爛たる配色の趣致は栄治郎の体質であろう。蔵王高湯時代のこけしは現在この三本以外確認されていない。

〔30.3cm(明治中期)(小沢康夫)〕
〔30.3cm(明治中期)(小沢康夫)〕 米浪庄弌旧蔵

この蔵王高湯時代の三本は、いずれも頭頂に黒い髪を描いている。米浪旧蔵のこけしの黒髪の部分が一番大きく、しかもロクロ線の蛇の目の回りに髪を描く手法である。手絡はその黒髪を回り込むように描かれる。この黒髪が蛇の目だけになると土湯の頭部と似て来る。土湯では大きな蛇の目に横に押しやられた飾模様がかせになった。栄治郎のこの頭頂中央の黒髪は、土湯から来て蔵王高湯の万屋斎藤藤右衛門の職人として働いた阿部常松とも何らかの影響関係があるかもしれない。
明治20年前後は、こうした新しい意匠の工夫や形式の混交が青根やその周辺を中心に起って、10系統が分化する揺籃期となった。

蔵王高湯時代の栄治郎の頭部 右は米浪旧蔵、左は東京こけし友の会蔵
蔵王高湯時代の栄治郎の頭部
右は米浪旧蔵、左は東京こけし友の会蔵

札幌時代のこけしは昭和11年川口貫一郎氏により頒布され比較的多く現存している。7寸、4寸一組であった。7寸は直胴、4寸は作り付けのくびれ型であった。川口頒布の残品は大阪の「てるや」で売られた。

札幌時代の岡崎栄治郎 川口貫一郎頒布 標準型 こけし談話会(平成23年11月)
札幌時代の岡崎栄治郎 川口貫一郎頒布 所謂標準型
こけし談話会(平成23年11月)

標準型の7寸の方は、栄治郎が山形時代に作並系を意識したこけしを作ったことがあったとすれば、あるいはその形態の名残であるのかもしれない。上掲の左端の胴模様は古作並の菊籬の菊にも似る。筆勢は鋭く、奔放な描彩ながら味は枯れてあっさりしている。

〔20.9cm (昭和11年)(深沢コレクション)〕
〔20.9cm (昭和11年)(深沢コレクション)〕所謂 標準型

上に写真で示した標準型のほかに、〈こけし風土記〉に掲載された作品のような大寸物が石井・西田・米浪・名和コレクションなどにある。石井眞之助旧蔵の2本を下の写真で示す。おそらくこうした大型のこけしは蒐集家を意識した作であろう。

〔右より 35.0cm、31.0cm(昭和11年)(石井眞之助旧蔵)〕
〔右より 35.0cm、31.0cm(昭和11年)(石井眞之助旧蔵)〕

蔵王高湯におけるこけしの製作は、青根から帰った岡崎栄治郎が最初である。やがて、万屋の斎藤藤右衛門が招いた阿部常松、常松に木地を習った三春屋の斎藤松治、松治に習った緑屋の斎藤源吉、遠刈田からやってきた我妻勝之助や佐藤直助、その弟子岡崎長次郎らによって系統の確立を見るのであるが、その端緒を開いた岡崎栄治郎の存在は大きかった。栄治郎の兄久作、その息子栄作、久太郎の能登屋を中心に、万屋、三春屋、緑屋の作者陣によって、芳醇・豊麗な蔵王高湯の伝統が生まれた。

〔系統〕蔵王高湯系 能登屋
栄治郎の型は、斎藤源吉、岡崎直志、岡崎幾雄、岡崎昭一、田中恵治らが継承した。また札幌時代のくびれ型は鳴子系の作者伊東東雄が復元製作したことがある。