神尾長八

神尾長八(かみおちょうはち:1897~1952)

系統:山形系

師匠:神尾長三郎

弟子:

〔人物〕明治30年5年30日、天童市久野本神尾長三郎次男に生まる。父の長三郎が山形の小林倉治の弟子であった縁により、明治43年に長八は倉治の長男である山形の小林倉吉に弟子入りした。父の長三郎は大正6年9月に亡くなったが、工場は弟子の神尾春吉や武田卯三郎が残って仕事を続けた。長八は大正6年11月に倉吉のもとでの年期明け後、天童にもどり自家の工場で仕事を始めた。薄荷入れを主体として、こけし・独楽・椀・火鉢等を挽いた。

小林家記録書(写本) 長八の修了証

大正7、8年頃及位の落合滝木工所で職人をした〈こけし手帖・46〉。その後、一時蔵王高湯の能登屋岡崎栄作の下で職人をし、さらに米沢の機業店でもしばらく働いた。
大正14年に結婚して久野本で独立した。その後一時久野本の南方に当たる天童市老野森に移ったが、昭和5年自家の工場を継いでいた武田卯三郎が米沢に移ったので、再び久野本に戻り、家業を引き継いだ。昭和10年頃からは駄菓子屋も兼業するようになり、また蒐集家からのこけしの注文にも応じるようになった。
深沢要の訪問は昭和10年で、その訪問記は〈こけしの微笑〉に詳しい。戦後は昭和22年ころから会田栄治の依頼で新型の下挽きをしていた。昭和27年11月16日に病を得て没した、行年56歳。 

〔作品〕兄弟弟子の高崎栄太郎によると修業時代に倉吉のもとで盛んにこけしを挽いたというが残っていない。そのころのものは完全な山形系と想像されるが、その後及位や蔵王高湯を遍歴したためその地のこけしの影響も受けている。主に昭和10年頃から昭和18年ころまでの作品が残っている。
ただ様式は多様で、長八名義で複数の作者がいるという見方も会ったが、すべて長八自身が作っていたようである。嵌込式と作り付けがあり、大寸物は下がくびれ、小寸物は直胴が多い。頭部は黒頭とてがらの二種がある。面相、特に眼の描法としては、鯨目のもの、下陰直線的のもの、三日月眼のように下に曲がるもの、一筆目のもの、また鼻の描法も、ねこ鼻、垂れ鼻、割鼻等がある。頬紅もあるものとないものがある。またを描き入れたものや、蔵王高湯式の髪飾り等を加えたものがあり一様でない。胴模様にはほぼすべて五弁の花を描く。 
こうした様式の中に神尾長三郎からの伝承がどの程度残っているのかわからない。おそらく木地の師匠倉吉や、父長三郎の様式に及位や蔵王高湯の様式が加わって長八のスタイルが出来上がったのだろうと思われる。
下掲は深沢要蒐集品で昭和10年久野本を訪れたとき入手したもの。

〔 18.8cm(昭和10年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

戦後は新型の木地が主だったようであるが、注文があれば自身のこけしも作ったといわれている。

〔伝統〕山形系
長八の没後、長八とともに戦後新型こけしを作っていた会田栄治が、長八型を継承するようになった。

〔参考〕

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