佐藤治平

佐藤治平(さとうじへい:1883~1952)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤重松

弟子:佐藤正男

〔人物〕 明治16年1月11日、遠刈田新地の佐藤菊治、よねの三男に生まる。佐藤重松、重吉は兄。明治28年尋常小学校を卒業し、13歳で青根の丹野工場の職人をしていた兄重松につき木地を修業した。明治29年、重松が新地に引き上げてきたので、治平も新地で木地挽の修業を続けた。16、7歳の頃には横木も挽けるまでに技術は上達した。
明治35年には青根の小原直治の工場で佐藤周吾と共に木地を挽いたが翌36年に新地に戻り、白石小林区営林局の仕事などをした。その年の12月徴兵検査に合格して、仙台第二師団に入隊し、明治39年まで軍役に就いた。
明治40年に峨々温泉から来た吉田峻治が水車利用の木工所を開設したので、佐藤松之進、円吉、広喜等と共に職人をしたが、経営に無理があり一年足らずで木工所は閉鎖となった。明治42年より佐藤直助、寅治、周吾、豊治等と共に北岡専属の職人となはり、盆や鉢類などを挽いた。明治44年に宮村下別当の農業我妻利八の三女けさよと結婚した。
大正2年からは名取郡秋保村立職業学校で教員を嘱託され、木地教師として働いた。大正8年8月まで秋保で働き、同10年に遠刈田温泉に間借りをして、北岡の仕事をした。この時期は第一次世界大戦の好景気だったので北岡仙吉は遠刈田温泉に電動式モーターを設置したロクロ工場を新設していた。治平はここで、昭和4年ころまで、こけしや盆、鉢、その他の玩具等を作った。
昭和に入ると段々不況になったので、昭和5年に木地を止め、営林署関係の山仕事をするようになった。昭和14年より、収集家の懇望により佐藤円吉の木地に描彩だけを行なった。
昭和19年営林署をやめ、戦後は自宅の足踏ロクロで若干こけしを作った。五男喜平、七男正男はこのときの弟子である。その後もこけしを作り続けたが、昭和26年頃から喉の具合が悪くなり、体調をくずして療養に勤めたが、昭和27年8月1日に没した。行年70歳。
治平は、とても厳格な性格で、気難しい一面もあり、負けず嫌いで一旦言い出したら後に引かなかったという。一方世話好きで面倒見がよく、村の区長や納税組合長を長く勤めるなど人望が厚いという一面もあった。
   

現役兵時代の佐藤治平

〔作品〕 下掲写真の2本は、天江富弥著〈こけし這子の話〉一、陸前の右端に 「遠刈田新地古型 大小」として掲載されたこけし。鹿間時夫は〈こけし手帖・21〉でこれを「どてら型の二本」と呼び、作者として小原直治の可能性を指摘していた。その後、高橋五郎が「大正10年に北岡の店で入手した」という天江富弥の言を紹介し、当時の北岡の工人とこのこけしの筆法の比較から、佐藤治平の作であると判定した〈佐藤治平と新地の木地屋たち〉。


〔右より 13.9cm、20.9cm(大正10年)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲も天江コレクション中のもので、同じ大正10年に北岡の店で求めたもの。こちらは後年復活した時の治平と共通した作行である。前掲二本も治平とするなら、おそらく古型として、昔の様式をあえて踏襲した作であったろう。〈こけし這子の話〉の解説にも確かに古型と書かれている。
下掲は大正10年当時の標準的な型と思われる。


〔 18.2xm (大正10年)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲の西田コレクション、深沢コレクションの作は、昭和14年頃蒐集家に乞われて佐藤円吉の木地に描彩を施したもの。線が鋭く、アクセントを付ける面描は大正期から変わっていない。甘みの少ない、剛直な作風であった。


〔 30.3cm(昭和14年頃)(西田記念館)〕 西田峯吉コレクション  佐藤円吉木地


〔 18.8cm(昭和14年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション  佐藤円吉木地

清水晴風旧蔵の浪江産コケシバイコは兄佐藤重松の作ではないかといわれているが、治平のこけしも共通するところが多く、残されたこうした遺品を通して周治郎系列治平家の古い様式を確認することが出来る。
   

〔伝統〕 遠刈田系周治郎系列 七男佐藤正男がこけし製作を継承した。

〔参考〕

  • 高橋五郎:〈佐藤治平と新地の木地屋たち〉昭和54年10月22日