佐藤誠

佐藤誠(さとうまこと:1901~1970)

系統:弥治郎系

師匠:小倉嘉三郎

弟子:佐藤誠孝/高橋精志/猪狩庄平/小松利意

〔人物〕明治34年2月13日、福島県伊達郡五十沢村字寺前3(現在の梁川町)の農業佐藤金七の次男に生まれる。明治42年9歳の時、弥治郎の小倉嘉三郎の家に入って約3年間子守りなどをしたのち、12歳ころより弟子として木地を修業を行った。弟弟子に大野栄治がいた。なお、師匠嘉三郎は半農半工で木地はあまり上手でなかったため、誠は休みごとに向かいの佐藤今三郎のところへ通い、木地を習ったという。
大正10年、21歳で入営。除隊後1年間、嘉三郎方でお礼奉公をしたのち、大正13年に仙台へ出て、東七番丁の東北漆器㈱職工として2年間盆類を専門に挽き、大正15年、福島県双葉郡折木鉱泉で独立開業、新山左内を職人として、菓子入れ、木地玩具などを主に挽いた。
翌昭和2年2月、平市に出て開業、佐藤木工所の名で、木製玩具の製造を開始した。このころより、一字名はよくないと注意する人があり、誠孝という名を使い始めた。以後、事業は順調に発展し、昭和14年8月には福島県平市佃町三番地に工場を新築、同年9月には宮城県刈田郡七ヶ宿村関に関工場を設置した。当時の営業案内書によると、資本金(個人企業だから出資金という意味だろう)25万円、平工場は敷地1350坪、建坪250坪、従業員は男子60名、女子15名、また関工場は製材工場で敷地600坪、建坪120坪、従業員は男子20名、女子4名、営業種目は軍需品、各種換物類、家具一般、洗濯板、木製教育玩具、特許木馬、木工品一式となっている。これら営業品目中、最も成功したのは特許佐藤式と称する木馬類であった。その後しだいに軍需品関係の仕事が増加し、戸籍上の本名を使わなければならない場合が多くなったので、また誠という名を常用するようになった。
昭和19年、44歳のとき、佐藤木工所を会社組織に変更し、新会社福本工業㈱の取締役社長に就任した。資本金25万円(現在の一億円程度に相当する)。他に会津車両工業株式会社社長、福島県怪物工業組合理事長、平木工家具工業組合理事長を兼ねた。このころが最も得意の時代であった。しかし、この時代も長くは続かず、終戦の年に軍部と関係した企業によって強制的に買収されることになってしまった。このショックで、一時は半病人のようになってしまったという。会社、組合などの役職は大分あとまでそのままになっていたが、昭和28年に解散、退任の手続を正式にとった。
この平時代の弟子には、高橋精司、猪狩庄平、佐野憲一、橋本芳男、吉住貞治の五人が、また木地職人には遠刈田の佐藤好秋、肘折の中島正、高橋詣治などがいた。戦後は中島正と共に会津若松で半年、郡山て三ヵ月ほど働き、その後飯坂で工場を持って独立した。
その後、昭和24年に東京へ出て、昭和25年、50歳のとき、群馬県前橋市の群馬総社に工場を借り、こけしを作りはしめた。その後、歩行器の製作を開始して一時は相当成功したが、周辺の大資本の業者で真似をする者が出たり、職工を引き披かれたりして、競争に敗れ、結局昭和30年ころ倒産した。以後、職工二人を使って木地を挽かせ、こけしを作って負債の整理にあてた。
昭和33年夏、岩手県花巻市桜木町へ移転した。その少し前の6月には、長らく所在不明となっていた佐藤伝喜を高崎市で捜し出し、こけしを作らせて収集界に紹介している。花巻移転後は、一時、御田屋町の佐藤辰木工所に勤め、ついで同市桜木町一丁目に移り、こけしを専門にひいた。翌34年、同市二板橋駅前で花巻民芸社を開業し、一時、板垣俊治、石川清志を職人として使った。しかし、昭和42年3月、火災により工場と住宅が半焼したため、一ノ関の尾張屋の幹旋により岩手県西磐井郡平泉町字飯沢十番地に転居した。その後間もなく、資本金二五万円で株式会社平泉工芸社を設立、社長に就任し、積極的にこけし製作を行なった。
体格はやや小柄だが、頑健で、きわめて勤勉であった。毎朝3時ころには仕事をはじめ、夜8時ころまで続けることも稀ではなかった。性格は粘り強く、事業家タイプで、他人の面倒をよくみることは定評があり、木地の技術は極めて秀れていた。昭和45年12月7日、一ノ関磐井病院にて没した、行年70歳。
なお、息子達に直接木地の指導をする機会はなかった。弟子でこけしの提けるのは、廃業した猪狩庄平と昭和40年代にこけしの製作を再開した高橋精志ぐらいである。
佐藤誠の次男佐藤誠孝は、高橋精志に木地の指導を受けて誠のこけし継承した。

佐藤誠 二枚橋時代 昭和39年8月
佐藤誠 二枚橋時代 昭和39年8月

〔作品〕婢子会は大正13年11月より15年8月にかけて活動した関西で最も古い郷土玩具の集まりで、友野祐三郎、筒井英雄、黒田源次、尾崎清次、西原豊が同人だった。婢子会は「日本土俗玩具集」(全五輯)を発行したが、その中に掲載された第二輯第五図が下掲写真で11本のこけしが紹介されている。この中で右から4本目が佐藤誠の作である。


〈日本土俗玩具集〉第二輯第五図

下掲は大正末期の8寸。胴模様に巻き絵を用いず手書きの花模様のみでまとめているのは珍しい。これをもとに佐藤誠孝が復元作を作ったことがある。


〔 24.2cm(大正末期)(柴田長吉郎旧蔵)〕

下掲写真は〈こけし 美と系譜〉35図の米浪庄弌旧蔵とほぼ同種の作、戦前の代表的な作例である。


〔 35.6cm(昭和7年)(鈴木康郎)〕 嵌め込み 久松保夫旧蔵

昭和10年代になると頭部の小さな作品が多く作られるようになった。


〔 24.1cm(昭和13年)(鈴木康郎)〕

〔30.3cm(昭和15年ころ)(深沢コレクション)〕
〔30.3cm(昭和13年ころ)(深沢コレクション)〕

戦後昭和30年代に入ると、負債への対応もあってこけしを盛んに作るようになり、下掲のような作品がこけし会や頒布会に多く出品されるようになった。作品自体の出来は悪くはなかったが、製作数が多かったため当時はかなり売れ残り、昭和40年頃まで東京こけし友の会の中古品即売によく並んでいた。今となっては貴重な作品である。

〔右より 18.8cm、23.5cm、19.0cm(昭和32年)(橋本正明)〕
〔右より 18.8cm、23.5cm、19.0cm(昭和32年)(橋本正明)〕

花巻時代にはキナキナも製作した。


〔12.6cm(昭和36年12月23日)(橋本正明)〕
檳榔樹の実を頭部に使ったキナキナ

系統〕弥治郎系嘉吉系列
弟子の高橋精志から誠の次男佐藤誠孝に、さらに誠孝からその長男英之、次男裕介へと伝統は継承されている。

〔参考〕

  • 佐藤光良:〈父のこけし〉七月堂(昭和53年11月)

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