高橋精志

高橋精志(たかはしせいし:1911~)

系統:弥治郎系

師匠:高橋精助/小倉嘉三郎/佐藤誠

弟子:

〔人物〕  明治44年9月15日、宮城県刈田郡七ケ宿村横川の農業・林業高橋精助・さたの二男に生まれる。父精助は弥治郎の小倉嘉三郎の弟で、横川の高橋幸吉長男長太郎の婿養子となった。母さたは長太郎の長女である。
精志の兄勇は横川の実家を継ぎ農業に従事し木地はやらなかった。弟精三も木地に従事せず、精志のみ木地の伝統を継ぐ。従来の文献に精司として紹介したものもあるが、精志が正しい。
大正15年、15歳のとき父精助より木地挽きの手ほどきを受ける。昭和2年、16歳のとき家を離れ弥治郎に移って、父の実家で伯父小倉嘉三郎についてさらに約1年半木地の修業を積んだ。その後は、横川の家に帰り農業の手伝などを行った。
昭和10年、24歳のとき福島県平に出て、嘉三郎の兄弟子佐藤誠のもとで働くことになり、木地挽きに専念することになった。
昭和14年8月、佐藤城は平佃町に工場を新築竣工した。この工場は従業員が男子60名、女子15名という大世帯で、主に挽物、家具、洗濯板、木製玩具、木工品を製造した。
昭和14年9月、宮城県刈田郡七ケ宿村関に佐藤木工所関工場が設立され、同年12月より作業を開始した。ここは従業員24名ほどであった。製品は主に洗濯板であった。精志はこの分工場の責任者として、関に移り、11月よりここに定住した。
昭和15年11月、〈鴻・5号〉に白石の菅野新一の報告が載り、精志は「木ぼこも最近挽き姶めた」と弥治郎系新作者として紹介された。
昭和16年、関工場は閉鎖となり、精志は平へ帰ることとなった。〈古計志加々美〉では精志のこけしが図版で紹介された。昭和16年応召し、同20年平へ帰還した。昭和20年8月、佐藤誠の工場は爆撃で全焼した。終戦はその1週間後であった。
昭和22年より古河鉱業㈱に勤務、木製コロなどを製作した。ここでは20年以上働いた。
昭和44年10月閉山のため古河鉱業㈱を退職した。その年の12月中旬よりこけし作りを復活した。昭和45年2月には自宅に作業場を新設してロクロを設置し、本格的にこけしを製作を再開した。
昭和53年2月15日没、行年67歳。

 

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昭和52年9月

〔作品〕

 

〔右より 29.1cm、18.0cm(昭和45年)(高井佐寿)〕
〔右より 29.1cm、18.0cm(昭和45年)(高井佐寿)〕

〔28.5cm〔昭和48年9月)(橋本正明)〕
〔28.5cm〔昭和48年9月)(橋本正明)〕 高橋精助型

〔右 小倉嘉三郎 左高橋精志 40.0cm (昭和48年)(橋本正明)〕
〔右 小倉嘉三郎 左高橋精志 37.8cm (昭和48年)(橋本正明)〕

系統

〔参考〕