轆轤

ろくろ。

ロクロの機構

ロクロには陶芸用のものなどもあるが、ここでは木工用のロクロについて説明する。
木工ロクロは、粗い円柱状に成形した用材の片側の底を機械の軸の先についた爪等で固定し、軸(心棒)を回転させることで用材を回転させ、そこに棒状のカンナの刃先を当てて用材の表面を削り成形する装置である。広義の木工旋盤であり、狭義の旋盤では爪の反対側からも用材を固定するが、回転させて用材を挽くという機構は木工旋盤も木工ロクロも同じである。
また、こけしは元来、木地師という特殊職能集団、中でも小物や玩具を製作する木地師がロクロで製作する木地製品の一つである。
軸を回転させるための動力は、二人挽きによる綱引き、一人挽きの足踏み、モーターと変化して、生産効率や製品の仕上がりに変化を及ぼした。

ロクロで木材を旋削(せんさく)することを木地を挽く、といい、製品は木地、挽き物などと呼ばれる。〈こけし辞典・東京堂出版〉

平成26年7月6日、巣鴨のとげ抜き地蔵で足踏みロクロを実演する鳴子・早坂利成
平成26年7月6日、巣鴨のとげ抜き地蔵で足踏みロクロを実演する鳴子・早坂利成

ロクロの語源

平安時代中期に編纂された辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう」十五 造作具に轆轤の項目があり、
”轆轤 四声字苑云轆轤(轆轤二音俗云六路)円転木機也。
と見えている。もと車篇のない鹿盧を書き、ルルと発音していた。木機が回転するにつれて発するクルクルという音を写した語であろう。ロクロというのは、その後にできた俗音であるとしている。”〈木地屋のふるさと〉(橘文策)

ロクロの歴史

ロクロを用いた木地挽きの祖とされるのは文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう・844-897年)で、君ヶ畑(現在の滋賀県東近江市君ヶ畑)へ隠棲し木地を教えたとされる。遠刈田新地など木地師ゆかりの地には惟喬親王を祀る神社が見られることがある。

惟喬親王像のかけられた遠刈田新地・佐藤好一宅
惟喬親王像のかけられた遠刈田新地・佐藤好一宅

ロクロを用いた古い木地製品として知られるものには、百万塔がある。6年を費やし宝亀1年(770年)に完成した100万基の木製の三重小塔で、この塔の中に収められている「無垢浄光陀羅尼」は世界で最も古い印刷物のひとつとされる。なお、百万塔の製作は惟喬親王の誕生以前のことである。

久四郎と綱取りの荒屋敷松蔵(橘文策撮影)
二人挽き: 久四郎と綱取りの荒屋敷松蔵(橘文策撮影)

ロクロの歴史において二人挽きロクロは明治になって足踏みロクロが普及するまで、1,000年以上の長きにわたり使用されてきたが、明治中期頃までには全国的に能率の上がる足踏みロクロにほとんど入れ替わった。戦後には電気のコストが下がったこともあり、動力(モーター)ロクロに移行する。
機構的には、スピード以外に二人挽きや足踏みロクロでは軸の回転が途中で反転していたが、モーターおよび水車ロクロなどでは一方向に回転するという大きな違いがある。

平成26年5月20日、モーターロクロに向かい立って木地を挽く弘前・長谷川優志
平成26年5月20日、モーターロクロに向かい立って木地を挽く弘前・長谷川優志

縦挽きロクロと横挽きロクロ

工人が心棒の正面に直角に座って挽く縦挽きロクロと、心棒の側面に平行して座る横挽きロクロがある。鳴子・木地山・津軽・南部系では横挽き、土湯や遠刈田、弥治郎などの系統では縦挽きである。

立木挽きと横木挽き

木地の材料を木取りする際、立木(たちぎ)、横木ができる。立木では、木目に対して直角に挽くことになり、こけしなど小物に多く用いられる。盆などは横木挽きで、割れにくいが、技法やカンナも異なることから、現在では横木も挽くこけし作者は少ない。

文献に見るロクロ

〈こけし辞典〉(昭和46年、東京堂出版)には轆轤(ロクロ)の項目が設けられていて、その由来や全体像を示すほか、二人挽き轆轤や足踏み轆轤(一人挽き轆轤)、ダライバン(木工旋盤)、ハズミ車付き足踏み轆轤、大車轆轤、水車轆轤など各種のロクロの項目が設けられて白鳥正明が執筆を担当している。
また、各種木工用ロクロの縁起と機構については、橘文策〈木地屋のふるさと〉(昭和38年、未来社)「轆轤の変遷」の章に詳しく、〈こけし辞典〉でもこれをある程度下敷きにしたものと思われる。
〈鴻・第十二号〉では、ロクロやカンナ、染料などの道具や用材、製造工程が実際の写真やサンプルを含めて詳しく説明されている。
こけしに関連する木地屋・木地業の変遷については、〈こけしのふるさと〉(菅野新一編著、昭和47年、未来社)等に詳しい。

参考

千年の杢「轆轤と旋盤」
木地師のふるさと、小椋谷

こけしポッドキャスト 第18回目・佐藤正廣(青葉こけし会)