岡崎栄作

岡崎栄作(おかざきえいさく:1886~1950)

系統:蔵王高湯系

師匠:岡崎栄治郎

弟子:岡崎嘉平治/佐藤庄作/佐藤作七/深瀬国雄

〔人物〕 明治19年9月2日、蔵王高湯能登屋の岡崎久作・ひでの長男に生まれた。母ひでは上ノ山士族鈴木良邑の長女、栄作の弟には久太郎、久助、重雄、久一郎、菊雄、作太郎がいた。木地技術は尋常高等小学校卒業後、叔父栄治郎に学び、こけし・茶道具などの土産物を挽いた。能登屋には職人も多く働き、荒井金七・佐藤庄作・桜井万之丞・太田伊三郎・小林吉兵衛・深瀬国雄・田中一也・平塚安兵衛長岡幸吉・大宮安次郎・山川源吉・神尾長八・佐藤作七などが知られている。このうち庄作・作七・深瀬国雄は栄作について木地を修業した。明治42年10月24歳で、斎藤忠治長女まつ(戸籍表記ま川)と結婚した。まつは斎藤源吉の妹。また弟の久太郎はまつの妹つめと結婚した。栄作・まつの間には、嘉平治・ツエ・ヨシエ・嘉一・常雄・竹次郎・嘉代子と四男三女が生まれ、長男嘉平治がロクロを踏むようになった。
〈こけし這子の話〉により写真紹介された。蔵王高湯での木地業が衰え始めてからも、農業のかたわら、注文によりこけしを作った。性格は温和・勤勉で、几帳面。栄作を訪れた収集家は、その実直な応対振りに皆感銘を受けたという。
昭和19年次男嘉一がニューギェアで戦死し、長男嘉平治がビルマ戦線から病を得て帰国したまま昭和23年に病死してからは急に気力が衰え、また軽い中風を患った。孫の幾雄に直接指導は出来なかったが、昭和24年幾雄が小野川の岡崎直志の下で木地を学び、作ったこけしが送られてきたときには栄作は涙を流して喜んだという。昭和25年10月25日蔵王高湯にて没した。行年65歳。
なお三男の岡崎常雄は東京で働いていたが定年退職後の昭和50年代から60年代にかけて幾雄などの木地にこけしの描彩を行ったことがあった。

岡崎栄作  撮影 水谷泰永
岡崎栄作  撮影 水谷泰永


岡崎栄作 昭和24年5月

〔作品〕〈こけし這子の話〉の時代より間断なくこけしの製作を続け、病に倒れる晩年まで、作品の変化も少なく堅実な作風を示していた。
大正期と思われる作は〈こけし這子の話〉に作例があるが、下掲の右端もほぼ同時期の作である。オカッパに太目の筆で大味に表情を描いているところに特色がある。左端は昭和6年の作、面描やや小振りになったが大正期と同様の味わいを保っている。


〔右より 25.5cm(大正末)(小沢康夫)、25.0cm(昭和6年)(目黒一三)〕
右:中屋惣舜旧蔵 左:米浪庄弌旧蔵

下掲の作り付け二本も昭和初期のの作。表情に鋭気があり、小寸ながら蔵王高湯の重厚さを感じさせる。


〔右より 14.5cm(昭和初期)(鈴木康郎)、14.2cm(昭和初期)(河野武寛)〕

昭和15~6年には盛んに作っていたが、作品に破綻はなく能登屋の主の作らしく筋目の整った出来であった。ただ描線は細目になり、顔もやや小作りになったいた。


〔26.7cm(昭和16年)(鈴木康郎)〕 56歳の記入あり

武田利一は「栄作のこけしには蔵王の稲花餅の柔らかさと淡い甘さを感じる」と評した。能登屋は代々嘉平治を名乗った蔵王高湯の旧家であり、名湯の地に深く根を据えて営業を続けていた。栄作のこけしには、代々旧家に伝えられた一種の文化の香りと花があり、それが作品の落ち着きと気品の底流となっている。

系統〕蔵王高湯系能登屋 

〔参考〕

  • 武田利一:能登屋 岡崎栄作〈こけし手帖・34〉:昭和36年4月
  • 鈴木康郎:談話会覚書(10) 岡崎栄作・嘉平治〈こけし手帖・616〉:平成24年5月
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