佐藤伝内(さとうでんない:1881~1942)
系統:弥治郎系
師匠:佐藤栄治
弟子:新山友蔵/渡辺幸治郎/渡辺求
〔人物〕 明治14年5月23日、弥治郎に生まる。農業木地業佐藤栄治・ふよの長男、勘内、五月の兄に当たる。戸籍表記は傳内である。東吉、栄治ゆずりの下屋敷は当時弥治郎一の分限者で、田畑4、5町歩、山林20余町歩、当時1年間の米を買わずにすんだ数少ない家の一つであった。
祖父東吉は弥治郎の発展に心を砕いた人物で、実子がいなかったため、姉妹の子である栄治と幸太に目をかけて育成し、遠刈田から最新の技術である足踏みの一人挽き技術を導入させて、弥治郎木地業の隆盛を図った。東吉は栄治を養子としたが、理財に長けていて、八宮有数の財産を作り、栄治はまた円満福徳な顔役で仏区長といわれた。
伝内は父について木地を修業し、小学校の4年頃から鉋をとった。勘内と競って木地に精を出したが、二人の挽いたきぼこの木地は祖母とよが喜んでこれを買い取り、自ら描彩して鎌先へ運んで商ったという。一方で若い頃から道楽は大好きで、白石の茶屋通いなどは盛んにやった。心配した父栄治が世話をした佐々木りつと明治33年に結婚、しばらくは落ち着き、長男伝吉をもうけたが、伝吉が生まれると間もなく離婚した。その後明治34年5月宮村の我妻てうと結婚して、むつよ、伝、伝喜、伝伍、敏、巳歳、新、とよこ、けい、雪弥と、さらに七男三女をもうけた。
新山友蔵、渡辺幸治郎、渡辺求が弟子となり栄治在世中は下屋敷の木地業はゆるがなかった。
しかし 結婚前からの伝内の道楽はやめられず、伝吉が小学校を卒業するころから、伝内はほとんど家に落ち着かないようになり、遠刈田温泉の女性を連れて流浪の旅に出てしまった。北海道、福島県伊達郡、大阪を流れ、いったん家に帰ったが、再び飛び出し、郡山、北海道、樺太と流れて暮らしたという。大正8年頃には北海道の定山渓で働いており、このころ鳴子の伊藤松三郎が来て職人をした。この定山渓の工場はまもなく佐藤久蔵(のちの白川久蔵)に引き継いだ。
父栄治が大正15年1月28日に亡くなったので伝内が家督を継いだ。
伝内自身は積極的に子供たちに木地挽きを教えなかったので、長男伝吉は農業の専従者となり木地業は廃止した。伝、伝喜、伝伍兄弟は、伝内の弟子で栄治の下で働いていた渡辺求や、職人をしていた本田鶴松から木地を習得した。
伝内の生活振りは乱脈であったが、育ちがよかっただけあって、人柄はそう悪くなかった。昭和12年秋弥治郎に帰り、三住の山奥で製炭に従事、昭和15年には女性とも別れ、大綱に移って笹小屋を建て、山仕事や日傭労務をし庶子豹治と二人でくらした。昭和16年には弥治郎の山の松林中に笹小屋を建ててすんだが、豹治とも分かれ一人ぼっちで病んでいたようである。
鹿間時夫は昭和16年10月にその小屋で神経痛でうめいている彼を訪ねたが、「いいようもない悽惨な感じを受けた」と書いている。
昭和17年6月19日没、行年62歳。豹治の消息は不明である。
北海道時代に定山渓などでこけしを挽いたといわれるがその時代のこけしは残っていない。近年、明治末期の伝内作が発見されたが、それ以外は昭和15年本田鶴松のところで数本作ったのが今日収集界に伝わっている大部分である。菅野新一氏の世話によるものであった。伝内が送った人生については、菅野新一著〈蔵王東のきぼこ〉「佐藤伝内と佐藤勘内」に詳しい。
〔作品〕 従来、菅野新一が、佐藤伝内を本田鶴松のもとに連れて行って作らせた数本のこけししか残っていないとされていたが、近年になって弥治郎を出て流浪を始める前の明末正初と思われるこけしが見出された。下掲の写真のこけしである。平成27年5月の談話会(東京こけし友の会)に持参された古こけしで、木地の形態は伝内の家の型と一致しており、また鬢の描法が左は裾が狭まり、右は同じ太さでバサッと描かれる点などが伝内の特徴と一致する。鈴木康郎は〈こけし手帖・658〉でこのこけしを取り上げて、様式・特徴が「伝内のこけしとして矛盾はないように思われる。盛期の伝内、貴重なこけしである」と判定した。
〔13.2cm(明治末期)(藤田康城)〕
以下は、晩年昭和15年に本田鶴松のロクロで製作した伝内である。
下掲は〈蔵王東のきぼこ〉に掲載された写真。右端4寸5分は伝内の祖母とよの描法、中央5寸3分は母ふよの描法、左端は伝内自身が明治35、6年頃作っていた型であるという。
左端および右端は、「こけし古名品展」に出品され、〈こけし古作図譜〉にも掲載されている。
とよ、ふよの描法はまだ足踏みが導入される前の古い弥治郎の型を伝えるもので貴重である。
下掲は、ふよの描彩の型で、〈蔵王東のきぼこ〉写真中央のもの。
下掲は深沢コレクション2本、左の8寸を鹿間時夫は「狂おしい恋の強烈な想いが宿るような人形であろうか。この破調の強さ、鮮やかな熱帯の花のような紅さ、もうどうでも良いような、なげつけたような墨のタッチ。虚空をにらむような鋭い表情。このような怪異なこけしは数奇の人、伝内が落魄の境涯で生まれたものである。〈こけし鑑賞〉」と評した。
〔17.5cm、24.8cm(昭和15年)(日本こけし館)〕深沢コレクション
〔17.6cm(昭和15年11月)(西田記念館)〕
下掲の手描き模様の作には、胴底に「昭和15年8月 トヨノオボコ」と墨書がある。伝内が祖母とよの描法を思い起こして絵付けをしたおぼこである。とよは天保7年に生まれて明治37年、伝内が24歳のときに、69歳でなくなっている、子供時代の伝内、勘内の木地にとよは喜んで絵付けをしたというから、伝内はその描彩を見ながら育ったのである。
〔24.5cm(昭和15年8月)(西田記念館)〕 トヨノオボコ
伝内の古こけしが確認されたとはいえ、その最盛期の作がどのようなものであったか全てが明確になったわけではない。それ故、小原の本田鶴松のところで死の二年前に作った数本のこけしが現存することは我々にとって幸運だったといえるだろう。それらは伝内の最盛期を偲ぶものであると同時に、鹿間時夫の言うように規矩から外れた伝内の生き様が透けて見えてくるような作品でもあった。また一方では、蔵王東において遠刈田と弥治郎が分化していく過程の描彩様式を伝える重要な史料でもある。
〔系統〕 弥治郎系栄治系列
伝内型のこけしは、佐藤伝喜、佐藤直樹、佐藤雅弘、高沢肇、高沢紀市などによって作られた。