高野幸八

高野幸八(たかのこうはち:1869~1920)

系統:鳴子系

師匠:大沼又五郎

弟子:鈴木庸吉/高橋勘七/遊佐民之助/松田初見/伊藤藤一郎/柴崎多人太

〔人物〕  明治2年10月8日、宮城県玉造郡鳴子村の塗師高野幸作・登(と)よの八男に生まれる。父幸作は旅館業高野四郎作の三男、母とよは高橋万右衛門(現鳴子ホテル)の次女。明治21年4月の沢口吾左衛門文書には高野幸作は塗師の部に、幸八は木地挽の部に名前が載せられている。
鳴子湯元で最初に木地を挽いたという大沼又五郎(戸籍表記 亦五郎)は高野四郎作の長男であったが、鳴子は第一子相続であったため、姉きんが高野屋旅館を継ぎ、又五郎は源蔵湯の隠居家督大沼竹三郎の婿養子となった。
高野幸八は、明治19年18 歳の時から叔父の大沼又五郎について木地を修業、兄弟子の源太郎(又五郎の孫、慶應2年生まれ)からも技術の指導を受けた。
明治22年に師の又五郎が没したので独立し、高橋直蔵家(現在の高亀)の二軒上手に高幸商店を開業した。
明治29年岩出山の畑甚吉長女つるよ(戸籍名まつよ)と結婚、女の子三人、男の子一人が皆生後間もなく亡くなり、明治39年に生まれた次男孝作、明治41年に生まれた三男孝次が成人した。
明治31年頃、鳴子を訪れた膽澤為次郎について足踏みの一人挽きを習得、同時に横木の板物を挽く技術も伝授された。以後、店の看板には「板丸兼ねての名人」と書いたという。板は横木の板物、丸は立木の丸物の意である。
鳴子で木地組合が出来たときの初代の組合長は幸八であった。
弟子としては、鈴木庸吉、高橋勘七、遊佐民之助、松田初見、伊藤藤一郎、柴崎多人太などが知られている。
鈴木庸吉は幸八の姉の子で甥に当たる。庸吉はこけしも盛んに作ったが、「こけしは明治35年頃一時売れ行きが鈍ったものの、明治30年から40年頃が一番良く売れた。」〈鳴子・こけし・工人〉と語っていた。この期間の多くを庸吉は幸八の下で働いていた。
弟子のうちでは藤一郎、多人太以外は皆こけしを作った。また高幸商店では、幸八の姉さと、妻つるよ(戸籍名まつよ)など女性も描彩をしていたようである。
大正9年7月25日鳴子にて没、行年52歳。

〔作品〕 現在、高野幸八作と判定されているこけしは、皆品川山三佐野健吉が大正2、3年に鳴子で求めたものである。佐野健吉の言によると「大正2、3年頃鳴子の鰻湯(かつての横屋、現在の吟の庄)に3日泊まったときに作らしたものである。鰻湯に行くだらだら阪の左側にあった木地屋だった。あの地方には椿がないので、苦心して一本手に入れて大きいのや小さいのをたくさん作らした。その後も行きあの寸法で五組作って、ひとつは三越の大供会へ寄付し、横浜の加山道之助さん、原宿の故橋田素山さん、その他では一対で買えないといって一本宛分けて買っていった人があったが皆震災で焼けてしまった。岸本彩星さんのところに行ったものは私の秘蔵していた一組だった。けれども、あれは鳴子の式ではなく、私の頭で作らしたものである。」〈こけしの追求〉。鰻湯に向かう坂の向かって左側で、最も鰻湯に近い木地屋は高野幸八の店であり、佐野健吉の話は高野幸八の店でのことを言っているものと思えわれる。 ⇒ 明治25年の鳴子古地図 (地図では幸八の上手にもう一軒の木地師大沼平三郎が描かれているが、平三郎は明治末期に魚屋に転業している。)
この話をもとに米浪庄弌が周到に調査考察した結果、米浪庄弌が西村庄次郎経由で手に入れた佐野健吉旧蔵の古鳴子こそ、このとき求めた幸八と判定された〈こけし手帖・12〉。
下掲の右端は頭に髷を描き、胴は鳴子では異色のロクロ模様、あるいは佐野健吉が「私の頭で作らせた」と言った男女一対の男児の方の型かも知れない。左端小寸は店売りの鳴子本来の型であろう。

〔右より 18.8cm、10.6cm(大正初期)(米浪庄弌旧蔵)〕
〔右より 18.8cm、10.6cm(大正2、3年)(米浪庄弌旧蔵)〕

弟子の遊佐民之助は「先生は菊の花なんかうまいもので、私らには真似が出来なかった。」〈こけしの追求〉と語っていた。
戦後になって、松田初見、その弟子熊谷正、松田忠雄などが高野幸八型を作った。また、こけし店の依頼により仙台の石原日出男が幸八型を作ったこともあった。

系統〕 鳴子系幸八系列

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