伊藤儀一郎

伊藤儀一郎(いとうぎいちろう:1882~1933)

系統:木地山系

師匠:高橋利四郎/伊藤政治

弟子:

〔人物〕 明治15年1月1日、秋田県雄勝郡川連村に生まる。井上栄治の孫。明治21年母キサが伊藤政治と結婚したので、妹のキヱとともに政治の養子となった。明治23年養父に長男兵太郎が生まれた。小学校卒業後、鳴子へ木地修業にでかけ、高橋利四郎について半年修業した〈こけしの微笑〉。鳴子での修業が、小学校卒業後ならば明治28年儀一郎14歳の頃であろう。その頃高橋利四郎は24歳、丁度高亀から独立して大沼利右衛門の上手で営業していたと思われる。
修業後は小安に戻り、養父や義弟たち(兵太郎、常治)と木地挽きに従事した。伊藤家は本来農業であったといわれているが、副業で木地を挽いていたのかもしれない。儀一郎が鳴子に行く前に養父の政治から木地の基本は習っていたという説もある。儀一郎は利四郎ゆずりの小物を挽いて巧みであったという。
大正13年、仙台の鈴木軍治によってこけし作者として発見された。ただ最初の写真紹介は昭和5年の武井武雄著〈日本の郷土玩具・東の部)である。儀一郎は当時すでに転業し、滝の原発電所の水槽番をしており、余暇に挽くくらいだったから、きわめて少数しかできなかった。武井画伯は断然日本一と推賞し、「このこけしの優秀さは嶄然頭角をあらわしているもので、すでに玩具の域を脱して装飾芸術として認め得る佳品である。……御所人形、嵯峨人形の意気であって、その優雅な美しさは黒檀の違い棚に安置しても正にふさわしいものがある」と激賞した。
この武井武雄の評価は当時の郷玩収集家の指針となり、多くの収集家が狂奔して儀一郎入手に走った。当時既に儀一郎は病身で、注文に十分応じられず、蒐集家を手こずらせる難物工人として有名になった。
野口小蘋の粉本を手本にして、山茶花、芙蓉、桔梗、燕子花、百合等の絵を胴に配して描いた。また日本一のゴム判を捺したりもした。
一方で性格は几張面で小心であったらしい。昭和8年3月16日没、行年52歳。妻スエとの間に澄、キヌ、ヒデ、儀三郎、錦の一男四女があるが、ヒデは幼死したという。
 

〔作品〕下掲写真は深沢要が小安で入手したもの。〈こけしの微笑〉「小安紀行」に次のように書かれている。「翌朝、私は二本の古びたこけしを手に入れた。三寸くらいのただ形だけのものではあるが、一本は佐藤留治のものであり、一本は儀一郎のものである。ともに地元の子供が持ち遊んだこけしとして、憶い出と共に愛蔵したいと思っている。」
この儀一郎、面描はほとんど見えないが、胴の赤と緑はかすかに残っており、野口小蘋の粉本による模様ではなく、木地山風あるいは鳴子風の菊模様が描かれている。これが子供が遊ぶための本来の儀一郎のこけしだったと思われる。


〔11.8cm(大正期)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲写真は石井眞之助旧蔵の伊藤儀一郎2本、特に右端は小椋久四郎が持っていたものを譲り受けたと伝えられ、大正期の儀一郎である。まだこけしの蒐集が本格的に始まる前に、こどもが遊ぶためではなく、飾る目的でこうした上手物のこけしが作られていたことは興味深い。上手物の歴史は決して新しいものではない。蒐集家出現以前から上手物の歴史はあったのである。


〔右より 31.0cm(大正末期)山茶花、39.0cm(昭和6年)芙蓉(石井眞之助旧蔵)〕

この2本の胴模様、山茶花と芙蓉は、下掲の野口小蘋の粉本をほぼ正確に写したものであった。

 
野口小蘋〈画法自在〉 山茶花と芙蓉

当時日本一ともてはやされた伊藤儀一郎が、〈画法自在〉の野口小蘋の絵を敷き写してその胴模様を描いていたことは、高久田脩司によって昭和14年の東京こけし会会誌〈こけし・4〉に報告された。しかも粉本の上には「上に紙を当てて鉛筆で写したものと見え、強く上から押した痕が歴然と残って居った」とあって蒐集界は騒然となった。儀一郎のこけしは「新型、あるいは創作こけしのはしり」とするものも、依然支持を続け「過小に評価すべきものではない」とするものもあって、こけし界の評価は二分された。鹿間時夫はどちらかというと擁護派、土橋慶三は糾弾派であった。

〔伝統〕木地山系 ただし野口小蘋の粉本による上手物の作品は儀一郎一代の工夫であった。

義弟の伊藤常治は儀一郎の様式を継承した。北山賢一、沼倉孝彦は伊藤儀一朗型を作っている。

 

〔参考〕

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