吉田仁一郎

吉田仁一郎(よしだにいちろう:1899~1940)

系統:蔵王高湯系

師匠:吉田畯治、我妻勝之助

弟子:

〔人物〕 明治32年2月1日、天童に生まれる。母は吉田神社の神主吉田守業の娘やし、吉田畯治は母の弟にあたる。叔父の吉田畯治は明治40年頃天童から遠刈田に移って水力応用の木地工場を作り遠刈田の工人を職人としたが、一年足らずでつぶれた。仁一郎は子供のころ叔父のいる遠刈田へ移り、叔父について木地を学んだと思われる。その後、蔵王高湯に移り万屋の職人として我妻勝之助、草刈目吉、遠藤幸三らと働いた。このころ勝之助らの影響のもとにこけしも作って万屋で売ったらしい。昭和6年頃に万屋を出て、山形に移り、さらに昭和8年頃に米沢へ行ってひろえ屋の職人をした。ひろえ屋では、石沢角四郎佐藤正吉、高崎栄一郎らとともに仕事をした。角四郎の言によると、「仁一郎は気が向けば夜中まで仕事をするが、気が短い変人であった」ようだ〈聞書・木地屋の生活〉。仙台でも働いたことがあるというが詳細は分からない。昭和12、3年頃、落ちぶれて遠刈田へ戻ってくるが、住む家もなく、松川の河原六郷堰堤に穴を掘って住んでいたという、〈山形のこけし〉には「トランク乞食」と呼ばれていたとある。昭和15年2月20日に失踪宣告が出されたが、それより先2月7日に松川堰堤の崖が崩れ、住居としていた穴の中で亡くなったいた。行年42歳。

〔作品〕 製作年代はほぼ万屋にいた大正中期から昭和6年頃までであろう。現存する作品は多くない。注目すべき作は〈山形のこけし〉の原色版で紹介された高内淑夫蔵の尺8分である。頭部大きく、それを重量感のある胴が受ける。面描は異色、鼻の穴まで描いた怪作であった。そのほかには、深沢(たれ鼻)、久松(割れ鼻)等古い蒐集家の蔵品中にいかにも蔵王高湯の万屋らしい大正末期の作がいくつか散見される程度である。オカッパ頭で、やや下向きの面描の可憐なこけしであった。初出の文献は〈古計志加々美〉で原色版で紹介されている。

〔24.3cm(大正末期)(深沢コレクション)〕

〔24.3cm(大正末期)(深沢コレクション)〕

系統〕 蔵王高湯系万屋系列。