
〔人物〕明治30年4月20日、山形県高畠町字川沼の農業鈴木清吉、かねの三男に生まれた。屋代尋常高等小学校卒業、東京の成城中学校中途退学した後、大平洋画塾にてデッサンを学び、さらに中島醴泉画伯につき日本画を学んだ。 一時米… 続きを読む
〔人物〕明治30年4月20日、山形県高畠町字川沼の農業鈴木清吉、かねの三男に生まれた。屋代尋常高等小学校卒業、東京の成城中学校中途退学した後、大平洋画塾にてデッサンを学び、さらに中島醴泉画伯につき日本画を学んだ。 一時米… 続きを読む
遠刈田に足踏みロクロ(一人挽きロクロ)を伝えたという木地師。 東京本所の人で、日光の菅原熊吉のもとて1年ほどを仕事をしたのち、仙台の高橋胞吉のところに寄り、そこで遠刈田新地に木地屋が多いと教えられて、明治18年旧1月16… 続きを読む
万延の頃に静岡に生まれた。箱根、東京で木地挽きの技術を身に付け、明治10年代から30年代にかけて東北各地を歩いて木地を挽いた。当時の先端的な技術であった足踏みロクロ(一人挽きロクロ)をこけし産地に伝えた工人でもある。 従… 続きを読む
ロクロの軸に二本の綱を逆向きに巻き、その端を踏み木の先につけて、足でその踏み木を交互に踏んで軸を左右に回転させるタイプのロクロをいう。その軸に取り付けた用材を手にもった鉋を使って旋削する。単に踏みロクロともいい、また、手… 続きを読む
〔人物〕明治34年3月15日仙台市に生まれた。町奉行男澤権太夫の子孫という。大正6年に仙台市電気部に就職し、昭和4年に宮城県商品陳列所に転じた。昭和7年仙台八幡町のこけし工人高橋胞吉の作るこけしに憧れ、自ら描彩して仙台市… 続きを読む
大正3年7月に第一次世界大戦が起こるとともに景気は急激に良くなり、木地製品の需要も急増した。この需要に応じるため、大正6年と7年に宮城県は遠刈田に計約30名の弟子が6ヶ月間木地挽きの技術を習得できるだけの補助金を交付した… 続きを読む
山形の木地職人。生年月日等不明。田中信也は弟にあたる。吉田慶二の〈聞書き・木地屋の生活〉によれば、小林吉太郎の小橋町時代(明治43年から大正6年)に兄弟ともに職人だったという。 その後大井沢に椀類を挽きに行ったことがある… 続きを読む
昭和初期に活動したこけし収集家。 明治36年3日24日、東京四谷に生まれた。大正15年3月第一高等学校文科丙類卒業、昭和4年3月東北帝国大学法文学部卒業、法学士、同年4月東北帝国大学助手、昭和7年4月東北帝国大学講師仏法… 続きを読む
〔人物〕昭和26年8月12日、米沢市東大通りの小林友次、キクエの次男として生まれた。家業が木地屋であったので、父の友次、兄の泰造の指導の下に木地を挽くようになった。主に木地下を挽いており、描彩はほとんどしていないと思われ… 続きを読む
〔人物〕 明治33年1月21日、岩手県江刺郡岩谷堂に生まれる。父は大工であったが、七之助は身体が弱く、家業を継ぐのが難しいと思われたので、15歳の時に及川吉三に師事してダライバンによる木地挽きを学んだ。 及川吉三はこの当… 続きを読む