大正3年7月に第一次世界大戦が起こるとともに景気は急激に良くなり、木地製品の需要も急増した。この需要に応じるため、大正6年と7年に宮城県は遠刈田に計約30名の弟子が6ヶ月間木地挽きの技術を習得できるだけの補助金を交付した… 続きを読む
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中井淳
昭和初期に活動したこけし収集家。 明治36年3日24日、東京四谷に生まれた。大正15年3月第一高等学校文科丙類卒業、昭和4年3月東北帝国大学法文学部卒業、法学士、同年4月東北帝国大学助手、昭和7年4月東北帝国大学講師仏法… 続きを読む
金子庫三
岩手県花巻市の郷玩文具店主。地方の博覧会などにイミテーションのこけしなどを発表したので一時こけし作者と誤伝された。そのこけしは花巻の無名の木地師に作らせ、金子庫三名義で出品したものであるが、その木地師が明確… 続きを読む
菊地久二
キナキナ作者と誤伝されたことがあるが、岩手県遠野駅前の木工所経営者でこけしの作者ではない。〈こけし這子の話〉に遠野として掲載され、製作人遠野駅前菊地久二として紹介されたが、作者は木工所で職人をしていた及川吉三であった。 … 続きを読む
小椋岩右衛門
小椋信右衛門の子。信右衛門一族は文化10年(1827)に近江を出て信州に移り、文政年間に宮城県玉造郡中山平に漂移し、蛭谷系の氏子狩に応じた。岩右衛門は天保七年(1836)の飢饉に追われて羽後に入り、雄勝郡高松村桂沢に木地… 続きを読む
小椋織江
喜多方の小椋千代五郎の祖父。 小椋織江の代の寛政年間には一家は信州下伊那郡飯田在にあったが、会津藩主松平容衆公の招聘で、文化7年9月に一家は南会津郡御殿料立岩村に移り、山林(御蔵人河原田家の領内)を開拓して会津若松漆器の… 続きを読む
斎藤藤右衛門
蔵王高湯の萬屋の当主。萬屋は元来豆腐屋であったが、その当主であった藤右衛門は蔵王の酒を、山を越えて仙台地方に売りに行っていた。その帰りに遠刈田、青根の木地製品を仕入れて、蔵王高湯の湯治客の土産物として売っていた。ところが… 続きを読む
佐藤応助
戸籍表記 佐藤應助。飯坂八幡屋の当主。明治23年12月三女くらに弥治郎の毛利丈助四男栄治が婿に入った。すなわち応助は佐藤栄治の義父にあたる。義太夫をやったり、踊りの師匠などをした。八幡屋の屋号は応助が飯坂の村社八幡神社の… 続きを読む
でぶ寅
箱根木地師。姓は不詳、名は寅治郎であるが、角力くずれで太っていたため通称でぶ寅と呼ばれていた。出生地、師匠名、生年月日なども一切不明。 東北地方の足跡でわかっているのは、明治18年晩秋に膽澤為次郎が去ったあとの土湯に現わ… 続きを読む
古関福太郎
山形県肘折近辺の出身で肘折で木地を挽いた人。〈こけしの郷愁・7〉によれば大沼新兵衛が佐藤周助の下で働いていた頃(明治35年頃)すでに年期を終えて職人として働いていたという。地味で堅実な人であったらしい。佐藤周助の息子佐藤… 続きを読む