佐藤文六

佐藤文六(さとうぶんろく:1880~1950)

系統:肘折系

師匠:佐藤文治

弟子:佐藤甚吉/佐藤文吉/斎藤伊之助/舟生門蔵/菅原富蔵/佐藤英吉

〔人物〕  明治13年3月28日、遠刈田新地佐藤文吉・とらの三男に生まる。父文吉は吉郎平家の出身(佐藤友吉の弟)、母とらは佐藤久蔵の姉にあたり、佐藤干代吉の夫婦養子となった。佐藤茂吉は義兄、佐藤円吉、佐藤丑蔵、佐藤文助は甥にあたる。
文六は明治25年長兄文治について一人挽きを1年間修業、明治26 年青根に小原仁平が木地工場をたてると、佐藤七蔵・佐藤寅治・佐藤直治に従って14歳の文六も小原の職人となった。その後、明治35年23歳まで小原工場で働いたが、同時代に職人として前記三名のほか周治郎系列の佐藤直助・直蔵・周吾・善八・島津善三郎、吉郎平系列の佐藤文平が働いていた。
文六は青根時代に柴田郡村田大沼勝蔵長女きしと結婚、義兄茂吉の五女としをを養女にした。明治35年青根を去り、佐藤周助のいる肘折へ行き尾形政治の工場に入って周助の下で働いた。
明治36年周助か独立して肘折の河原湯で開業したので、文六は尾形工場下請け主任となった。仕事場は尾形の店から一軒おいた斎藤伊之助家の下家で、ロクロが四台あったという。文六のもとで働いた職人は鳴子の鈴木庸吉・大沼新兵衛・柴崎丑次郎・大沼熊治郎、遠刈田の佐藤丑蔵・三治・村上蔵吉・白川久蔵・鈴木幸之助、肘折の八鍬亀蔵などが知られている。また文六が肘折で養成した弟子には、肘折の斎藤伊之助、湯田川の工藤治助、戸沢村の佐藤平吉がいる。
文六妻きしは明治42年11月21日肘折で亡くなった。
周助は木地を挽いて働くより、山菜取りや魚釣りが好きで、湯治客が多く入る時期にはもっぱらそれで稼ぎ、また文六とも仲がよく、よく一緒に飲んでいたという。
明治45年及位駅前に工場をもつ佐藤盛昭は、肘折で文六の技術を見て、ぜひ自分の工場で働いて欲しいと勧誘した。及位では甥の佐藤三治が明治44年に一時期働いたことがあった。文六は及位に良材トチが豊富であるという話に心を動かし、同年5月30日に及位に移った。間もなく肘折から家族を呼び、及位から一里ほど奥の仙北沢にある荒取り工場で働いた。仙北沢には大沼熊治郎・佐藤丑蔵が手伝いにきた。
大正3年35歳のとき、佐藤盛昭の工場を引き継ぐことになり駅前に移った。この文六の工場を 及位木工所(写真半纏には及位木工場とあり木工場が正しい名称かもしれない)という。及位木工所時代には多くの職人が出入りしたが、主な工人は遠刈田周治郎系列の佐藤豊治・善作、吉郎平系列の佐勝文助・丑蔵・好秋・講作・茂利治・三治・誠次、吉田峻治工場から来た我妻庄三郎、鳴子の大沼甚五郎・新兵衛、湯田の高橋市太郎、上ノ山の太田伊三郎、鶴岡の柏倉勝郎、湯沢の鈴木国蔵などである。及位木工所時代の弟子には及位の佐藤英吉・舟生門蔵・菅原富蔵・佐藤慶太郎、宮城県の菅野武志、戸沢村の佐藤甚吉がいる。甚吉は文六の後妻サクの甥にあたり、文六の養女としをと結婚して婿養子となった。
大正10年刊の全国特産品製造家便覧 〔下巻〕(日本物産奨励会 編)には指物玩具の製造家として佐藤文六の名が記載されている。

全国特産品製造家便覧 〔下巻〕

昭和9年及位落合滝に農林省農村振興助成金1,600円をもとに及位ロクロ木工組合工場が完成し、文六はここで中心となって働いた。職人には弟子の佐藤甚吉・舟生門蔵・菅原富蔵のほか、佐藤誠次・武田弘・今野高蔵、そして湯田で修業して帰った孫の文吉などがおり、戦争の激しくなる昭和18年10月ころまで操業した。戦後は昭和21年8月より駅前の工場で仕事を開始し、昭和25年3月14日71歳で亡くなるまで木地業をつづけた。
性格は極めて磊落で包容力に富み、穏健、貫禄ある工人であった。何を聞いても淀みなく答えたと深沢、鹿間両氏が印象を記している。人情にも厚く、事業家としての能力も身につけていたという。

大正8年ごろの及位駅前佐藤文六の店頭 右より 菅原富蔵、佐藤文六、佐藤きく(文六妻)、佐藤としを(文六養女、文吉母)、舟生門蔵
大正8年ごろの及位駅前佐藤文六の店頭
右より 菅原富蔵、佐藤文六、佐藤サク(文六妻)、佐藤としを(文六養女、文吉母)、舟生門蔵

右 佐藤文六、左 佐藤誠治
右 佐藤文六、左 佐藤誠次

佐藤文六夫妻
佐藤文六夫妻

〔作品〕  天江富弥はある人から大正13年にゆずられた佐藤文六のこけしを4本所蔵していたが、このとき産地名および入手地が曖昧であったため、〈こけし這子の話〉図版には掲載をためらっていた。そして及位の佐藤文六と判明した時には写真が間に合わず、掲載できなかったという。ただ図版解説の末尾に「以上は、写眞帳の順序を追うて申し上げたものですが、右のほか、羽後及位に新地系の佐藤文六がこけしをつくり、(中略)写眞に間に合わずに了いました 。」と書いている。
〈こけし這子の話〉に間に合わなかった4本を、下に掲載する。大正13年にゆずられたものであり、製作時期は大正中期であろう。
いづれも面描大振りで存在感は抜群、生命力あふれるこけしである。胴上下のろくろ線も紫、あるいは赤と紫の組み合わせで極めて粋である。歌舞伎や浮世絵に見る化政期の色調を連想させる。
強い作意は感じられず、むしろ自然体で鷹揚な仕上がり、見ていて安定感あふれ心地よい。

〔 26.4cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔 26.4cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

〔右より 24.2cm、30.3cm、21.5cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔右より 24.2cm、30.3cm、21.5cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲は、橘文策の旧蔵、尺1寸と大きいが、〈日本郷土玩具・東の部〉〈愛蔵こけし図譜〉に掲載された武井武雄蔵の文六と同様におかっぱ頭で、鬢も直接頭部の髪と繋がる形式。
武井蔵は扁平な頭で、武井は「どこで踏み潰されて来たかと思うような娘です」と書いているが、この橘蔵はむしろ縦長である。武井蔵は、昭和4年2月に取り寄せたものというが、この橘旧蔵はやや後の昭和5年頃の作であろう。この時期にしては水平な切れ長の眼でないのが珍しい。

〔33.0cm(昭和5年)(目黒一三)〕橘文策旧蔵
〔33.0cm(昭和5年)(目黒一三)〕橘文策旧蔵

下に掲げる鹿間時夫旧蔵は、こけし古名品展はじめ数々の展示や文献にも繰り返し掲載され紹介された大名物。鹿間時夫は〈こけし鑑賞〉で、「堂々たる大ぶりの木地は圧倒的である。その上濃厚なねっとりするような描彩の情味。月餅というか八宝菜というか、油のぎらぎら浮いたポルシチというか、スパイスの香りがぷうんとする。」とこのこけしについて書いている。鹿間時夫の前は林新三郎の所蔵であった。首は嵌め込みで自由に廻る。ボタンの花は胴の前後に二段上下、合計4輪描かれている。胴底に「明治十五年」の墨書がある。文六は明治13年の生まれであるから、明治15年作と言うことではなく、そのころの型という意味での墨書であろう。

〔 39.5cm(昭和6年頃)(鹿間時夫旧蔵)〕 
〔 39.5cm(昭和5年頃)(鹿間時夫旧蔵)〕

下掲は石井眞之助旧蔵の昭和9年頃の作。表情はおとなしく静謐の感が表れるようになった。しかし、眉の筆は依然として太く、文六の安定した完成期の作であろう。

〔 31.8cm(昭和9年頃)(橋本正明)〕
〔 31.8cm(昭和9年頃)(橋本正明)〕

〔20.8cm(昭和11年)(久松保夫旧蔵)〕
〔 20.8cm(昭和13年)(久松保夫旧蔵)〕

〈木の花・14〉では文六を次のように4期に分類する。

第1期 : 昭和8年以前   上掲の鹿間旧蔵まで
第2期 : 昭和9~11年   上掲の橋本蔵
第3期 : 昭和12~15年  上掲の久松旧蔵
第4期 : 昭和16年以降

第4期になるとやや筆力衰えて、眉の筆も細くなる。文六の粋も、濃厚な情味も枯れておとなしいこけしに変わった。

系統〕 肘折系文六系列
佐藤文六を遠刈田系に分類するか、あるいは肘折系に分類するかは議論の分かれるところである。西田峯吉、高橋五郎はあくまでも遠刈田系であるとする。肘折系の要件である鳴子の影響が見られないことをその論拠とする。
一方、例えば蔵王高湯のように発生は遠刈田であり、胴がやや太くなっただけの岡崎栄作、岡崎長次郎であっても、系統創成期の青根から別れ、風土に根付いた作風となったものは独立に扱って蔵王高湯系を立てている。そうであれば、遠刈田に比べて胴が太く、重量感も圧倒的に増して肘折風の印象を受ける文六のこけしも同様に肘折系として扱わざるを得ないという議論がある。それにより文六の弟子である斎藤伊之助も自然に肘折系とすることができる。〈こけし辞典〉は後者を取っており、ここでは〈こけし辞典〉に従っている。

佐藤文六の型は、孫の佐藤文吉が作っていたが、文吉没後は遠刈田の佐藤一夫が継承している。

〔参考〕

  • 西田峯吉:文六ノート 〈こけし手帖・40〉 名品こけしとその工人
  • みずき会:〈こけし研究ノート ・ Ⅱ-4〉 佐藤文六
  • こけしの会:〈木の花・14〉連載覚書 「文六こけし」
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