カテゴリー別アーカイブ: 歴史

田代寅之助

遠刈田に足踏みロクロ(一人挽きロクロ)を伝えたという木地師。 東京本所の人で、日光の菅原熊吉のもとて1年ほどを仕事をしたのち、仙台の高橋胞吉のところに寄り、そこで遠刈田新地に木地屋が多いと教えられて、明治18年旧1月16… 続きを読む

膽澤為次郎

万延の頃に静岡に生まれた。箱根、東京で木地挽きの技術を身に付け、明治10年代から30年代にかけて東北各地を歩いて木地を挽いた。当時の先端的な技術であった足踏みロクロ(一人挽きロクロ)をこけし産地に伝えた工人でもある。 従… 続きを読む

遠刈田木地細工木工養成所

大正3年7月に第一次世界大戦が起こるとともに景気は急激に良くなり、木地製品の需要も急増した。この需要に応じるため、大正6年と7年に宮城県は遠刈田に計約30名の弟子が6ヶ月間木地挽きの技術を習得できるだけの補助金を交付した… 続きを読む

佐藤応助

戸籍表記 佐藤應助。飯坂八幡屋の当主。明治23年12月三女くらに弥治郎の毛利丈助四男栄治が婿に入った。すなわち応助は佐藤栄治の義父にあたる。義太夫をやったり、踊りの師匠などをした。八幡屋の屋号は応助が飯坂の村社八幡神社の… 続きを読む

でぶ寅

箱根木地師。姓は不詳、名は寅治郎であるが、角力くずれで太っていたため通称でぶ寅と呼ばれていた。出生地、師匠名、生年月日なども一切不明。 東北地方の足跡でわかっているのは、明治18年晩秋に膽澤為次郎が去ったあとの土湯に現わ… 続きを読む

小室萬四郎

明治14年1月24日、遠刈田の小室市之丞、しゅんの次男に生まれた。遠刈田温泉で土産店丸萬商店(明治末期創業)を設立経営した。明治42年、同業北岡商店と競って仕送り制度を導入し、工人の囲い込みを図った。 大正3年3月に上野… 続きを読む

佐藤兵吉

天保2年12月19日、福島県土湯温泉の岩城屋旅館佐久間弥治右衛門三男として生まれた。米穀商加藤屋佐藤松五郎長女ナミと結婚して養子となった。 ナミとの間に茂作、嘉吉が生まれた。明治18年、膽澤為次郎が土湯にやって来て一人挽… 続きを読む

佐藤盛昭

山形県最上郡及位に木地工場を経営した人。盛昭本人が木地を挽いたか、あるいは経営にだけ携わった人かはっきりしない。明治35年に盛昭が肘折に行ったときに佐藤文六の仕事を見て、その木地の技術に強く惹かれて文六を自分の工場へ招聘… 続きを読む

第4回内国勧業博覧会

京都岡崎公園で開催された四回目の内国勧業博覧会。当初は、明治27年に開催される予定であったが、京都の建都1100年の記念事業として、明治28年に開催したいとの京都市民からの要請を受けて、この年の開催となった。明治27年に… 続きを読む

丹野倉治

青根の商店主であり、また木地工場を経営した人物。 明治15年ころから遠刈田新地や箱根から木地製品を仕入れ、これを青根温泉の浴客に商っていた。職人を雇い自らの工場で浴客からの需要が高かった木地製品を生産することを思いたち、… 続きを読む